ウィットに富んだ筆で綴られた随筆には、貴族の美意識が生き生きと手に取るように描き出されているが、それを書いている張本人は引き籠もりの失業者なわけだ。キャリアウーマンだった清少納言にとって、それがかなり辛いことだったのは想像に難くない。しかし、文句の一つや二つくらい漏らしてもおかしくないような状況なのに、過去の栄光にすがっている様子が微塵にも感じられず、彼女の目線は美しくて、華やかなものにまっすぐ向けられている。それが枕草子という不思議な作品の最大の謎だ。
な~んだ、キラッキラしているセレブの話かと思ったら、年季の入ったオバサンの妄想だったのか!とここで落胆してしまう読者もいるかもしれない。しかし、華やかなライフを離れてしまったからといって、地味なカッコして懺悔をしないといけない理由はない。清姐さんはキレイなものへの憧れが捨てられなくて困っているどころか、捨てる気がまったくないのである。
清少納言はなぜ、枕草子を書いたのか
荒れた田舎の屋敷に住んでいようが、殿方が訪問に来ようが来まいが、そんなのはどうだっていいのだ。勘違いだと思われても、欠点だと指摘されても、それもこれも彼女の一部なのだ。人並みの人生を歩もうという考えや、「えせ幸ひ」に身を委ねる気なんてサラサラない。野暮ったいカッコをして、整然とした家でちまちまと家計簿をつける女は、清少納言じゃない。たとえ着物の裾が少し汚れてもいつまでもゴージャスでいるのが清姐さんだ。
枕草子の後書きには、他人に見せるつもりで書いたわけではなく、思いがけず世間に漏れてしまった、と書かれているが、最初から発表するつもりだったのではないか、と私は(勝手に)思う。清少納言が心底愛していた定子や、その周りにあった文化サロンの様子と、そこで営まれた華麗な生活をどうしても書き残したかったのだろう。
日常に対する不安や政治のいざこざが少しでも現れたら、その世界を作り上げていた美意識自体が揺れてしまうと感じ取った清少納言は、意識的に醜いものを全て排除し、翳りひとつない完璧なユートピアを作ったように思う。それは千年たった今も、「美」の本質を語り続けるために、どうしても必要だったちょっとした偽りなのだ。
そして、どこかの田舎のボロい屋敷の一室に篭もり、ひたすら紙に筆を走らせて、揺るぎない美意識に人生を捧げた清少納言の生き方こそ、現代女性が目指すべき「デキる・イイ女」の姿なのである。女は弱し、されどをかし女は強し……。
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