ピンチに陥った「蔦屋重三郎」救ってくれた人物 鱗形屋は信用失墜…重三郎はどう乗り切る?
鱗形屋孫兵衛が大きく信用落とす
安永7年(1778)、江戸の老舗出版社の主人・鱗形屋孫兵衛は、大名家の家臣が主家の宝物を質入れするのを仲介した罪により、信用が大きく失墜します。
この不祥事で、鱗形屋がそれまで刊行していた黄表紙は、翌年(1779年)には、前年の12種から6種に激減。安永9年(1780)には、黄表紙の刊行がゼロという事態にまで追い込まれていくのです。
鱗形屋の系列であった蔦屋重三郎も、その煽りを受けます。
蔦屋も事件以降、出版点数が減り、『吉原細見』(江戸・吉原の情報誌)などを細々と刊行するだけの状態になってしまうのでした。
蔦屋の出版点数も事件前までは順調だったことを思えば、やはりこれは、鱗形屋の経営が悪化したことにより、系列が支援を受けづらくなったことが影響しているのでしょう。
そして今回の騒動は、蔦屋重三郎が業界に参入してから、初めての大きなピンチと言ってよいでしょう。


















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