ピンチに陥った「蔦屋重三郎」救ってくれた人物 鱗形屋は信用失墜…重三郎はどう乗り切る?
蔦屋重三郎が経営する書店はこのまま潰れてしまうのか?
ところが、そうはなりませんでした。事件後は苦しい状態だった出版点数。それが、安永9年(1780)になると、蔦屋は一気に15種もの書物を刊行するようになるのです。
蔦屋は元来、「吉原細見」の小売りからスタートしたのですが、この年の「吉原細見」の刊行は、わずか2種。最も多く刊行されたのは黄表紙で8種でした。
なかでも、目を引くのは、朋誠堂喜三二の黄表紙を3種(『竜都四国噂』『廓花扇観世水』『鐘入七人化粧』)も刊行していることです。
朋誠堂喜三二はどんな人物なのか?
では、朋誠堂喜三二とは何者なのでしょうか? 朋誠堂喜三二は変わった名前ですが、これは、本名ではありません。筆名(ペンネーム)です。
朋誠堂喜三二の本名は、平沢常富(1735〜1813)ですが、煩雑となるので、ここでは、喜三二で通します。
江戸時代中期の戯作者として知られる喜三二ですが、武士の家(寄合衆家臣・西村氏)の生まれです。少年時代には出羽国久保田(秋田)の藩士・平沢氏の養子となります。
その後は、藩主の小姓・近習・刀番となり、安永7年(1778)には、留守居役助役、天明4年(1784)には留守居役筆頭にまで出世するのです。ようは、久保田藩江戸屋敷の重役に出世したのでした。
とは言え、喜三二は堅苦しい「官僚タイプ」ではなく、江戸の一流文人と交流し、遊郭にも出入りしていました。「宝暦の色男」と自称したと言いますから、なかなかのものです。
吉原に出入りしていた喜三二は、次第に吉原通になっていったものと推測されます。
明和6年(1769)には、鱗形屋の『吉原細見』を執筆しています。安永6年(1777)には黄表紙『親敵討腹鞁』を執筆。同作で画を描いたのは、戯作者・浮世絵師の恋川春町でした。
喜三二は、鱗形屋の「専属作家」的立場と言われるように、鱗形屋と強い結び付きを持っていました。前述した鱗形屋孫兵衛の没落は、当然、彼ら作家たちにも大きな影響を与えます。
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