遊女を紹介「吉原の情報誌」巡る江戸の版元の変化 蔦屋重三郎も「吉原細見」の販売から事業開始

著者フォロー
ブックマーク

記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
はこちら

印刷ページの表示はログインが必要です。

無料会員登録はこちら

はこちら

縮小

「吉原細見」とは、吉原の妓楼(遊女を置き、客を遊ばせる店)、茶屋、遊女の名を絵地図のようにして紹介した、今風に言えば「吉原情報誌」のことです。

「吉原細見」は、江戸時代初期の貞享年間(1684〜1688)頃には刊行されていたと言います。徳川将軍で言うと、5代将軍・徳川綱吉の頃です。

「吉原細見」は需要があったようで、享保年間(1716〜1736)には、「吉原細見」を出版する版元も増えてきます。ちなみに、享保年間というと、8代将軍・徳川吉宗の時代です。

江戸系と京都系の書商の競争

隆盛期の「吉原細見」は、鱗形屋孫兵衛・相模屋与兵衛・鶴屋喜右衛門・相模屋平介・三文字屋亦四郎・山本九左衛門らが刊行していました。ところが、1738年頃からは、鱗形屋と山本の2つの版元だけが刊行するようになりました。さらに時が経つと、鱗形屋のみが「吉原細見」を刊行するようになっていきます。

大河ドラマ べらぼう 蔦屋重三郎
吉原の出入り口とされる吉原大門(写真: skyyokohma / PIXTA)

鱗形屋は、草双紙や芝居本ほか、さまざまな書物を刊行してきた江戸の老舗出版社です。17世紀中頃の創業と言われています。鱗形屋が創業した頃は、京都系の書商が力を持っていました。江戸で誕生した書商との間で、市場をめぐり、競争が展開されます。

そこで京都系の書商に対抗するため、江戸の書商は「地本問屋仲間」を結成するのです。地本とは、江戸で出版された大衆本(草双紙、絵双紙など)のこと。「書物問屋」というものもあり、こちらは、歴史書や仏教書・儒学書などお堅い書物を販売していました。18世紀も中頃になると、江戸の出版物数が、上方を上回るようになりました。

重三郎は、ちょうどいい時期に出版業に携わることになったと言えます。それにしても、江戸の老舗出版社である鱗形屋と、重三郎がどのようにして結び付いたかは興味あるところです。

残念ながらそのことに関する史料はなく、その点を明確にすることはできません。

重三郎と同時代の狂歌師・石川雅望は、重三郎のことを「志気英邁にして、細節を修めず、人に接するに信を以す」(「喜多川柯理墓碣銘」)と評しています。

人に抜きん出た優れた気性を持ち、度量が大きく、細かいことにはこだわらず、信義を重んじたという意味です。

重三郎は人格者だったということですが、そうした人間性が、人々を惹きつけて、鱗形屋との接点が作られたのかもしれません。

関連記事
トピックボードAD
キャリア・教育の人気記事