地域独占の下でも効率化を進めるために、「ヤードスティックコンペティション」(電力会社同士の効率性を比較する)という考え方や、価格低下を促す政府による効率性のチェックの体制が取られた。これもサプライサイドの供給制約を打破するため、産業のための電力の効率的な安定供給のためにデザインされた。
独占禁止法は、米ソ冷戦、朝鮮戦争という外的な理由によって実効性が弱められたが、その機会を利用して、何よりも供給制約を打破し、無駄な競争による二重投資を避けたいという日本政府の基本方針があった。
外貨不足というボトルネックを打破するために、輸入代替および輸出による外貨獲得は重要であったが、それも、需要のためではなく、資本制約、供給制約の打破のためであった。固定相場制のため、内需が過熱すると輸入が膨らんだが、これを抑えるためには景気を抑制しなくてはならない。金融政策として利上げが必要で、「ストップアンドゴー」と呼ばれる国際収支の天井が存在した。需要政策は、当時は過熱を抑えるために行われていたのだ。
「戦後の日本経済システム」とは何だったのか
一方、第1次オイルショックで景気が悪化すると、官民一体、労使一体となって、インフレを克服、エネルギー不足を克服した。そして、省エネを推進し、供給制約に陥らないようにし、また国際収支を悪化させないようにした。
同時に、原子力発電の技術競争を東京電力と関西電力で争い、エネルギー自給率を上げるという目標とともに、電力会社へ経営の刺激を与え続けた。景気循環への対策は、あくまで長期成長の道筋を腰折れさせないように行われ、メインバンクが不況期でも資金を絞りすぎず、企業に長期投資の継続を促した。欧米には、ここで大きな差をつけ、1980年からの第2次オイルショック後は、世界一の産業国家となったのである。これも供給力の維持、発展のためのシステムであった。
要は、戦後の日本経済システムとは、産業資本、金融資本、外貨、原材料、人材というリソースの制約の下で、供給力を効率的に伸ばす仕組みであったのである。国内資本の蓄積が優先され、国民の貯蓄率を高める政策も行われ、これは東アジアの社会の価値観とも整合的で、多くのアジア諸国の模範となるシステムとなった。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら