鷲北さんは1961年に神奈川県横浜市西区で、父親はサラリーマン、母は専業主婦の家庭で育ちました。
そんな鷲北さんの幼少期は周囲から「神童」と言われるほど優秀でした。
「小学校時代は同学年に240人ほどいたのですが、(勉強を何もせず)放っていても1番でした。中学受験用の模試を受けたら、成績優秀者として名簿に名前が載りました。その一方で、勉強ができるからといって周囲を見下しているひどい子どもでした。人として最低だったと思います」
傲慢だった彼を変えたのは、私立の栄光学園を受験しようとしていた友達に触発されたことでした。「お前が受けるなら、俺も受ける」と言い、友達が通っていた予備校の冬期講習に参加した鷲北さんは、自分よりはるかに勉強ができる人をたくさん見て、衝撃を受けました。
「初めて、自分は井の中の蛙だったと気づきましたね。たいして勉強してないから、当たり前なのですが、栄光学園にも落ちてしまい、今までの自分を否定されたような気分になって泣きました。この失敗がきっかけで、『勉強ができることに何の意味があるのだろう』と考えるようになりました」
一緒に受けた友人も栄光学園の補欠合格が惜しくも繰り上がらず、同じ公立中学校に進むことになります。
音楽関係の仕事に就く夢を抱く
「勉強ができる」という自信が中学受験の失敗で崩れてしまい、自分の存在意義について考えていた鷲北さんでしたが、中学1年生の終わりくらいに今の生き方につながる出来事が起こります。
「授業中に前に座っていた女の子が、板書をするために前に出ようとしていたのですが、つい彼女を掴んでしまったんです。それで、『○○(女の子の名前)、行かないでくれ!』と言ったら、クラスが爆笑の渦に包まれました。このとき自分は、今までにない快感を覚えて、人を笑顔にできるような人間になろうと思ったのです」
そこから、バンドを組んで学園祭で演奏したり、人を笑わせることをつねに考えてクラスの人気者になった鷲北さん。将来はラジオ局に就職して、音楽関係の仕事をしたいという夢を抱くようになりました。
しかし、学生生活が充実しすぎたことで、気がついたら入学時に140人中10番だった成績は、中学3年生のときに学年で半分より下の位置にまで落ちてしまいました。
「当時の神奈川は内申点重視だったのですが、その点数もよくなかったです。5段階評価で音楽だけ5で、あとは2か3でしたね。ラジオ局に行きたかったので、専門科がある高校に入るという選択肢はありませんでしたし、なんとか入れる普通科高校を探して、創立2年目だった神奈川県立舞岡高等学校に入りました」
無料会員登録はこちら
ログインはこちら