生きがい失った男に届いた「手紙」と新たな出会い 「源氏物語」を角田光代の現代訳で読む・橋姫②

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宰相中将(さいしょうのちゅうじょう(薫))も、院の近くに控えていて、私こそ、この世の中をじつに味気ないものだとよく知っていながら、それでいて勤行など、人から注目されるほど励むわけでもなく、不本意な有様で日を過ごしてきた、と心ひそかに思っているので、身は俗にいながら心は聖の境地になるとはどんな心構えなのだろう、と耳を傾けている。

「出家のご本願ははじめからおありなのですが、『些細なことに引きとどめられているうちに、今となっては不憫な娘たちを見捨てることはとてもできない』と嘆いていらっしゃいます」

俗世を離れたとはいえ、さすがに音楽を好む阿闍梨が、「本当のところ、この姫君たちが琴を合奏なさっているのが、川音に競うように聞こえてくるのはじつに風情があって、極楽もかくや、と思うほどなのです」と古風な褒め方をするので、院も笑い、

「そのような聖の元で育ったのならば、俗世間のことなどはさぞや疎いのだろうと察するが、それはおもしろいことだ。その姫君たちのことが心配で、見捨てることができずに困っておられるらしいが、もししばらくでもこの私のほうがあとに生き残っているようだったら、姫君たちを預けてくださらないだろうか」などと言う。

山陰の住まいに届けられた手紙

この冷泉院は、故桐壺帝の十番目の皇子(みこ)だった。朱雀院が、弟である亡き六条の院(光君)にお世話をゆだねた入道の宮(にゅうどうのみや(女三の宮(おんなさんのみや)))の例を思い出し、「その姫君たちを私も手に入れたいものだ、所在ない折の遊び相手として……」とふと思うのだった。

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中将(薫)のほうはかえって、八の宮の悟り澄ましているという心境をお目に掛かって拝見したいものだと思う気持ちが強くなっていった。そこで阿闍梨が山に帰っていく時、

「かならず参上しますので何かと教えていただけますよう、まず内々にご意向を伺ってください」と頼みこむ。

冷泉院からの伝言として、「まことに心打たれるようなお暮らしのご様子を人伝(ひとづて)に聞きまして……」などと言い、

世をいとふ心は山にかよへども八重(やへ)たつ雲を君や隔つる
(俗世を厭(いと)う私の心はあなたのいらっしゃる山里へも通い、またあなたの心とも通じているはずですが、お目に掛かれないのは、八重に重なる雲でお隔てだからでしょうか)

阿闍梨はこの手紙の使いを先に立てて、八の宮邸に向かう。ごくふつうの身分の、当然訪ねてきてしかるべき人の便りすら来ない山陰の住まいに、院の使いとはじつに珍しいことなので宮はよろこんで迎え入れ、場所にふさわしいご馳走などを用意して、それ相応に歓待する。宮の返事は、

あと絶えて心すむとはなけれども世をうぢ山に宿をこそかれ
(俗世をすっぱりと捨てて悟り澄ましているということはありませんが、この世を憂きものと思い、宇治山に仮住まいをしております)

修行のことについては謙遜し、あえてこのように宮が返歌をしたので、今もやはりこの世に未練がないわけではないのだ、と冷泉院はいたわしくそれを見る。

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