世間に出ていくこともままならず
宮は、父である桐壺帝(きりつぼてい)にも母である女御(にょうご)にも早くに先立たれ、しっかりとした後見もとりたててないなかで、学問なども深くは修めることができなかった。まして俗世間で生きていく処世の心構えなどあるはずもなかった。高貴な方というなかでも、あきれるほどに上品でおっとりした女のような人である。古くから伝わってきた宝物や祖父の大臣の遺産など、何やかやと数限りなくあったはずなのだが、みなどこへ行ってしまったのか、いつの間にかなくなってしまい、調度類ばかりだけがことさら麗々しくたくさん残っているのだった。ご機嫌伺いに訪問したり、気に掛けてくれる人もいない。宮は所在ないままに雅楽寮(うたづかさ(音楽をつかさどるところ))から音楽の師たちなど、その道の達人を呼んでは、役にも立たない遊びごとに熱中して成人したので、音楽にかけてはじつに秀でているのだった。
この宮は源氏の大殿(光君)の弟で、八の宮である。冷泉院(れいぜいいん)がまだ東宮だった時、朱雀院(すざくいん)の母后(きさき)(弘徽殿大后(こきでんのおおきさき))が、冷泉院を押しのけてこの八の宮を東宮に立てようと、自身の威勢のままにあるまじき計画を企てる騒動があり、宮は心ならずも、あちらの源氏方とのつきあいからは遠ざけられてしまったのである。それからはますます源氏の子孫の時代となり、世間に出ていくこともままならず、この何年かはこうした聖となりきって、もはやこれまでといっさいの望みを捨てているのだった。
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