その時代に受け入れられやすい容姿は、自分では選択できません。離婚や死別というアクシデントの責任は、子どもにはありません。未知のウイルスで肉体がむしばまれる者も無傷の者もいます。難病や障害をもっていることは自分にも起こりうる不条理です。これらはすべて、自由に選択できなかったことです。
善処する方法を考えて決断する諸条件が、きちんと用意されていなかった者たちにとっては、それが理由でうまくいかなかったら、それは彼らの自己責任ではありません。
無念さと無力さは敗者の言い訳ではない
自己責任論は、そういう「選択できなかったこと」を前にしてたたずんでいる人間の無念さや無力さなどをすべて「敗者の言い訳」と排除して、なおも「そうなることを避けるための努力が足りなかったのだ」と追いかけて来て切り捨てます。
なんと傲慢な理屈なのでしょう。自分の努力によってすべてを成し遂げたと結果から逆算して、人の善意や運にも恵まれたことを忘れる、自分に対しても他人に対しても浅はかな考え方です。そしてそれを「この世の冷徹な原理だ」とします。最悪のフェイクです。
明日不運にも破産したり、病気になったりしても、そう言えるのでしょうか?
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