競争社会の優勝劣敗は「自己責任」というフェイク 責任とは「失敗の後始末をすること」ではない

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どうしてこういうすれ違いが起こるかと言うと、私たちの社会の多くの人間が、責任を「失敗したことの後始末や尻拭い」と脳内翻訳しているからです。

裏を返せば、「失敗することを死ぬほど恐れるように教育されたこと」「失敗をした後のセカンドチャンスを、ほとんど用意してくれない社会で生きてきた」ということです。

「間違えるとアホと思われる」というおびえ

子どもの頃から正解を見つけてさっと先生に示し、決して間違えない、間違えたら「マジ、ヲワタ」と即断する、ノートの誤答はすべて消しゴムで消す、みたいなことを繰り返してきた人たちは、責任の本義(己の判断と行動とその結果を結びつけて考えること) を「失敗したダメな自分がそう烙印を押されて、それにじっと耐えること」と、独自の解釈をしてふさぎ込むのです。

だから、あれこれと事前に危険回避のための知恵を使います。「答えを間違えるとアホだと思われるんじゃないかというおびえ」を小・中・高と12年間育て続けた大量の日本人は、PTAのやってきたもう必要のない習慣(「運動会の招待席へのお茶出しのシフト表をエクセルでつくってミーティングする」など)を「やめましょう」と言われただけで、何かのスイッチが入ります。

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