そして、「やめた結果起こる心配なこと(文句を言われる、批判される、勝手なことをしたと指摘される)」の場面を1秒くらいの間に先回りして脳内に浮かべて、「責任取れませんから」と言って、なおも無駄なミーティングのために時間をつくり、夕方の家事育児の時間を無理してズラしたりするのです。「そんなのやめましょう」と言い出しっぺになることを避けるコストです。
競争社会での敗北は誰の責任か?
この「失敗は許されず、それが回避できなかったときは、黙って耐えてやり過ごす」という心の習慣は、PTAの現場を超えた社会生活においても同じように展開されます。世紀転換後、規制緩和と競争の推奨、無駄を省いて効率よく優勝劣敗市場を生き延びようとする「ネオ・リベ」の風潮は、こういう過剰な自己卑下を「自己責任」という言葉で正当化させました。
各々が自分の才覚と努力とをもって競争社会に挑んだ結果だし、それは市場(アダム・スミスの言う「神の見えざる手」)が出した答えだから、敗北は自己責任であるという説明です。
でも、これは私たちの社会を、今日著しく萎縮させているよろしくない「フェイク」なので、やや強めに言っておきましょう。
「自己責任」などというものが問題になるのは、自分が「自由に選択することができた場合」だけなのであって、結果に至るまで「そのような条件を強いられざるをえなかった」、あるいは「自由に選択しろと〝限定された選択肢〞を無理に押しつけられた」場合には、問う必要も意味もないものです。
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