「高校受験で失敗して悔しい思いをしたので、周囲を見返したいなと思い、MARCH(明治大、青山学院大、立教大、中央大、法政大)を目指しました。1学年に400人ちょっといた学校なのですが、最初から30位くらいに入れたのでキープするために頑張りましたね。物理や化学の成績はよくなかったのですが、最終的な評定平均値は3.9ほどありました」
父親のために国公立の対策をする
最高学年になった野洲さんは、MARCHに入るため、3教科の勉強に集中したかったそうですが、「父親のために仕方なく」国公立を受けるための対策をしました。
「父親は国公立志向が強くて、早慶よりも地方国立のほうがレベルが高いと考えていた人間でした。そのため英語・国語・日本史に加えて、文系数学を勉強して、国公立に向けた勉強をしていましたね。
この当時は大学への進学者が4分の1しかいない高校だったので、2年までは全教科が必修で、受験に特化した対策ができなかったのもつらかったです。参考書を買って勉強したり、駿台予備学校の季節講習に行くことで、なんとか対策していました」
こうして努力を続ける一方で、野洲さんの駿台模試の偏差値は40台でした。父親の願いをかなえるために受けた横浜市立大学と、明治大学など合わせて4校を受けたそうですが、結局この年は全落ちで終わってしまいます。
「まったく歯がたたないと感じました。模試の判定も覚えてないくらいの成績でしたし、問題の演習量も足りなさすぎました」
こうして野洲さんは浪人を決断します。決断した理由としては、「今と違って浪人する人が周囲にも多かった」ためでした。
彼は予備校には通わず、河合塾や駿台、代々木ゼミナールなどの各予備校の単科コースを取りながら勉強をする、宅浪(自宅浪人)を選びます。
「進学校に行っていた友達から、当時の予備校では、上のクラスに行かないと優秀な先生に教えてもらえなさそうだと聞きました。そのため、大手予備校に加えて、当時まだ中堅だった東進や、研数学館に行き、いい先生の授業を受けるようにしていました」
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