野洲さんは東京の郊外で生まれ、学校職員の父と、専業主婦の母との、3人で暮らしていました。
「小さいころの成績は可もなく不可もなくでしたが、小学校高学年くらいから、社会や政治に興味を持つようになりました。当時の首相が中曽根さんで、三公社民営化(注:国鉄と日本専売公社、日本電信電話公社の民営化)などが進む中で、世の中がどう変わっていくのかについて関心を持っていました」
社会や政治に関心を抱いた野洲さんは、公立小学校から公立中学校に進みました。当時の成績は中の上でしたが、興味・関心が強すぎる性格だったために、高校受験では失敗してしまいました。
「私は英・数・国がそこそこの成績だったので、その3科目を使える私立高校を志望していました。ですが、私の興味関心は入試で使わない公民の分野で、図書館に行くと際限なく社会の出来事を調べてしまい、受験勉強に集中ができなかったのです。結局、英・数・国の成績は上がらず、入試では使わない社会だけ偏差値が65くらいにまで上がりました」
補欠合格で繰り上がったのに進学できず
私立高校は日本大学鶴ヶ丘高等学校、明治学院高等学校を受験したものの、不合格・補欠合格と望んだ結果は得られませんでした。そのため、滑り止めだった都立の中堅校に進むことを決意します。しかし、進学校とはいえなかったこの学校に進学することに、野洲さんはショックを受けました。
「明治学院は補欠合格が繰り上がったのですが、(進学した)都立高校の手続きをした後だったので行くことができなかったのです。進学校に行きたかったので、ショックでした。進学先は偏差値が50を切っている学校だったので、人生で初めて訪れた挫折でした」
思いもしなかった都立高校に進んだ野洲さんでしたが、その生活は決して悪いものではなかったそうです。
「今までつきあったことがないような友達ができましたね。それまで仲よかったのはおとなしい子ばかりだったのですが、高校に入るとさわがしい友達とつるむようになりました。それまで運動部に入ったことがなかったのですが、水泳部に入ってみたのもよかったと思います。先輩たちにしごかれながら、飛び込みを覚えたり、クロールや背泳ぎをしていました」
思いもしない方向に転がった人生も、楽しめていた野洲さん。成績は、高校に入ってから急に上位に上がり、その成績をキープすることを頑張ったそうです。
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