「織田信長と武田信玄」明暗を分けた真逆の税政策 領主による「税の奪い合い」だった戦国時代
信玄は、天文10(1541)年に領主の座について、その翌年の天文11(1542)年8月には、すでに1回目の大増税を実施しています。
具体的に何をしたかというと、新たに「棟別(むなべつ)帳」の作成を開始したのです。棟別帳というのは、簡単に言えば、領内の各家屋とそこに住んでいる家族のことが記された帳簿のことです。
新たに棟別帳を作成し、家ごとに課税する「棟別役」という税金を強化したのでした。これは、信玄の苦肉の策であり、甲斐地方の貧しさを物語るものでもあるのです。
農地を基本とした税制の限界
当時の税制は、本来、農地が基本となっていました。「田や畑に対して、いくら」と定められていたのです。そのほか、家屋にも課税されていましたが、それは補完的な税であり、それほど大きな額ではなかったのです。
しかし、信玄領の場合、本来、補完的な税である「棟別役」に頼らざるを得なかったのです。
農地を基本にした場合、天候不順などで農作物の出来が悪かったら、税の基準を引き下げなくてはなりません。つまり、農作物の出来によって税収が左右するのです。しかし、やせた土地の甲斐地方では、そういう税の掛け方をすると税収が確保できなかったのです。頻繁に不作になるため、頻繁に税を引き下げなくてはならなくなりました。
そのため、信玄は農作物の出来に関係なく、毎年一定の税収を確保できる「棟別役」を税の柱に据えたのです。農地ではなく、「家屋」や「家族」に課税することで、税収増と税の安定化を図ろうとしたのです。
ただ、それは農民の負担を大きくします。農作物の出来が悪くても、毎年決められた税を納めなくてはならないからです。
信長が「農民に年貢以外の厳しい税を課してはならない」としたのとは、まったく正反対の政策だとさえ言えます。信長も棟別銭を課した事例はありますが、信玄に比べればはるかに小規模で低額でした。
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