「織田信長と武田信玄」明暗を分けた真逆の税政策 領主による「税の奪い合い」だった戦国時代

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本来の荘園領と、荘官や地頭が「二重」に税を取るような事態になるのです。「二重」とまではいかずとも、税の仕組みが複雑になり、農民は余計な税負担を強いられることが多々あったのです。つまり、中間搾取が増えていったのです。

室町幕府は、各地に守護を置いていました。守護は本来、中央政府から任命された一役人にすぎませんでした。ところが、中央政府が弱体化すると力をつけていき、実質的にその地域を治めるようになっていったのです。

それが守護大名と言われる者です。さらに、その守護大名の力が弱くなって、その地位を奪う戦国大名が出現してきました。

これも農民にとって負担が増える要因になりました。農民は荘官に年貢を払うだけでなく、守護にも「段銭(たんせん)」という形で税を取られるようになりました。段銭というのは、農地一段(一反)あたりに課せられる租税のことです。もともとは戦争時などに臨時的に徴収されたのが始まりですが、戦国時代には半ば常態的に取られている地域もありました。

また、新興勢力である「加地子(かじし)名主」にも、事実上の年貢を納めなくてはならなくなっていました。「加地子名主」は、もともとは農民だった者が力をつけて地主的な存在になった者のことです。このように、戦国時代では社会のシステムが崩壊し、力の強い者がどんどん収奪するようになっていたのです。

戦国大名は、この社会システムを再構築する必要に迫られていました。今のままでは、農民は幾重にも税を払わなければならないため、民力を圧迫してしまいます。また、大名の年貢の取り分も非常に低いのです。「分散した年貢徴収システムを一括にまとめること」。それが戦国大名にとっての大命題だったのです。

信長の「中間搾取の禁止」と「大減税政策」

この戦国時代の税の矛盾を大胆に解消しようとしたのが、あの織田信長なのです。あまり語られることがありませんが、信長は大胆な農地改革を行い、領民に対して「大減税」を施しています。

寺社の迫害もそうですが、信長の施策には「税を逃れている者、税を勝手に取っている者を弾圧し、なるべく領民の税負担を軽くする」という指針が貫かれているのです。

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