「織田信長と武田信玄」明暗を分けた真逆の税政策 領主による「税の奪い合い」だった戦国時代
経済観点から見たとき、信玄は信長を決して追い詰めていたわけではなかったと言えます。むしろ、追い詰められていたのは信玄だったのです。
武田信玄は、信長と真逆な税政策を採っていました。それは信玄が愚かだからなのではなく、信玄の抱える大きな経済的なハンディがそうさせたものでもありました。
信玄の武田家は、そもそも甲斐の守護家であり、甲斐源氏の統領という地位にありました。守護大名の家臣から成り上がった信長の織田家や、守護代にすぎなかった上杉謙信とは、スタートラインにおいてかなり有利な立場だったのです。それにもかかわらず、武田信玄は上杉謙信との対決には手こずり、信長には大きく出遅れてしまいました。
その最大の要因は、経済だと思われます。信玄の出発点である甲斐武田領には、経済的に大きな不安要素が2つありました。1つは「農地」としての貧弱さです。甲斐は水害も多く、豊穣とは言い難かったのでした。
もう1つの不安要素は、武田領が「陸の孤島」だったということです。信玄の当初の領地は山間部であり、海に面していないので、交易や商業はあまり栄えていませんでした。そして、他国から生活に必要な物資を輸入するとき、船舶などで直接、搬入できず、必ず陸路を通らなければなりません。だから、周辺の大名と敵対すれば、物資の流通がストップしてしまうのです。
信玄はこの2つのハンディを抱えていたため、なかなか経済成長できなかったのです。
「土木事業」と「増税」に活路を見出した信玄
信玄には、貧弱な甲斐で戦費を賄わなければならない、というハンディがあったのです。彼はそのハンディをどうやって克服したのかというと、1つは有名な土木事業です。信玄は、大掛かりな土木事業を行い、必死に農業生産を上げようとしました。
そして、もう1つは「増税」なのです。信玄は戦費を捻出するために、たびたび大増税を行っているのです。甲斐地方では、普通の方法では十分な税収が上げられず、大掛かりな増税を何度も行いました。そのために、領地から逃亡する領民が続出していました。
「信玄は、領民思いの領主だった」などと評されることもありますが、これは認識誤りだと言えます。甲斐の経済状況では、領民のことを考える余裕などはなかったのです。
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