道長としても、一条天皇の暴走を止めらなかったとして、自身の求心力が失われていくのは避けたいところ。なんとか中宮の定子に対抗すべく打った手は、自身の娘・彰子の入内であった。
ただ、前述したように、一条天皇には定子以外にも女御がおり、道長からすれば、娘・彰子のライバルとなる存在は、定子だけではなかった。
さらにいえば、道長にとって、兄の道隆の娘である定子は姪にあたり、姉の詮子の息子である一条天皇は甥にあたる。もし、娘の彰子が一条天皇の子をみごもらなかった場合は、定子との間に生まれた敦康に天皇になってもらったほうが、ほかの女御との間に生まれた子が天皇になるよりも、はるかにマシである。
そのため、道長は「娘の彰子が一条天皇との間に子を成す」というAプランの実現を目指しながら、かなわなかった場合のBプランを考えて、一条天皇と定子との間に生まれた敦康を後見人として支えている。
前代未聞の行啓となったワケ
何かとうるさい実資からすれば、Aプランのほうを支持しそうなものである。なにしろ、一条天皇と定子の関係をあれだけ疑問視していたのだ。道長の娘・彰子が懐妊して、その子がゆくゆくは天皇となれば、宮中の秩序は保たれる。
だが、ここが面白いところなのだが、実資はいつも道長に味方したわけではなかった。むしろ、たびたび反発の姿勢を示している。
長保元(999)年8月9日、定子が2人目の子を産気づいたときのことだ。本来ならば、懐妊した后は里邸に移ることになるが、定子の場合は、里邸である二条宮が「長徳の変」のあとに焼失してしまっている。
そのため、職曹司から平生昌の自宅へと移されることになった。平生昌とは、中宮に関する事務を行う「中宮職」で三等官にあたる「大進」を務めていた人物である。
中宮を自宅に招くことができるような身分ではなかったが、それなりの地位にある公卿たちはみな、道長の不興を買うのを恐れて、受け入れを拒んだようだ。
ほかに受け入れ先がないがために、選ばれることになった平生昌のほうも、大変だったらしい。平生昌の自宅には皇族を迎える門がなく、板門屋という簡素な門から、出入りしてもらわなければならなかった。
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