その一方で、娘の彰子は、押し出しの強い父が嫌でたまらなかったらしい(記事「孫を皇太子にした道長を恨む"意外すぎる人物"」参照)。
彰子は、一条天皇と自分の間に生まれた息子の敦成ではなく、定子との間に生まれた敦康を後継者にと望んだが、かなわなかった。敦康があまりに不憫だと感じたからだというが、道長からすれば、理解できない理由だったことだろう。
反発が我が子に向かうことを恐れた
しかし、実資のように、誰からもわかるかたちで反発の意を示す者はまだマシで、多くの人は、相手への失意を胸に抱けば、黙ってその人から離れていく。
彰子が敦康のほうを皇太子にと考えたのは、強引なやり方に対する道長や自分に対する反発が、やがて我が子に向かうことを恐れたから、ではないだろうか。
【参考文献】
山本利達校注『新潮日本古典集成〈新装版〉 紫式部日記 紫式部集』(新潮社)
倉本一宏編『現代語訳 小右記』(吉川弘文館)
今井源衛『紫式部』(吉川弘文館)
倉本一宏『紫式部と藤原道長』(講談社現代新書)
関幸彦『藤原道長と紫式部 「貴族道」と「女房」の平安王朝』 (朝日新書)
繁田信一『殴り合う貴族たち』(柏書房)
真山知幸『偉人名言迷言事典』(笠間書院)
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