人々は「未だ御輿の板の門屋に出入りするを聞かず(件宅板門屋、人々云、未聞御輿出入板門屋云々)」と噂したと、実資が日記『小右記』につづっている。つまり、人々はこう言って戸惑っていたようだ。
「御輿が板門屋に出入りするなど聞いたことがないよね……」
バタバタのなか、大きいお腹で移動することになった定子。すでに十分惨めだが、皇后が外出する「行啓」にあたっての上卿、つまり、責任者を務める公卿も、誰もいなかったという。一条天皇が再度、呼びかけたことで、藤原時光と実資が手を挙げて、結果的には、時光が引き受けている。
実は、この行啓の日に、道長はあえて宇治の遊覧に出かけている。道長に同行した公卿は、藤原道綱と藤原斉信の2人で、多くの公卿は自宅にひきこもって、様子見を決め込んだ。
そんな道長の行動を、実資は「行啓の事を妨ぐるに似る」(后のお出ましを妨げるようなものである)と批判している。
一条天皇と定子の関係はあってはならないことだが、だからといって、行啓を妨害するような真似はよくない……実資には、そんな一本筋が通ったところがあった。
強引な道長パパに反発した彰子
我が道をゆく実資は、道長が彰子の入内にあたって、和歌を集めた屏風を持参させようとしたときも、協力を拒んでいる。
道長からすれば、娘の入内に華を添えたかったのだろう。藤原公任、藤原高遠、藤原斉信、源俊賢など選りすぐりの歌人に和歌を依頼。みなが引き受けるなか、実資だけが「大臣の命で歌を作るなど前代未聞」と頑として協力を拒んだという。
いつでも周囲に流されない実資の態度は立派だが、道長もまた、そんな人材を排除しなかった。それどころか、実務能力を評価し、むしろ重宝したことについては、道長に「リーダーの器」を感じさせる。
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