紫式部「アラサーで夫と死別」幼い娘との壮絶経験 気持ちがすれ違う中で起きた悲しい出来事
「夫の訪れを待つ」としていた紫式部ですが、次第に心境の変化もあったようで「おほかたの秋のあはれを思ひやれ 月に心はあくがれぬとも」(他の方に心を惹かれているのはわかりますが、いつも悲しみに暮れている私のことも思いやってください)と哀願ともとれる歌を詠むようになります。可哀想な紫式部です。その紫式部を更なる悲劇が襲います。
49歳で宣孝が急死する
長保3(1001)年4月、夫・宣孝が急死するのです。49歳でした。このとき紫式部は30歳前後とされています。
その前年から、「死病の者が京中に満ちている」とも言われるほど、疫病が流行していたのです。朝廷では祈祷を行いますが、効果はありませんでした。
同じ年の2月には、宣孝は藤原道長から呼び出しを受けて、所用を命じられていますが、「痔病」を理由に断っています。痔は命にかかわる病ではなく、宣孝の死因とはまた別のものでしょう。おそらく、宣孝も疫病によって亡くなったのだと考えられます。
紫式部が夫の死に際して、詠んだ歌は残っていませんが「世の中の騒しきころ、朝顔を人の許へやるとて」という詞書のもとで「消えぬ間の身をも知る知る朝顔の 露とあらそふ世を嘆くかな」との歌を詠んでいます。
「世の中の騒しきころ」というのは、疫病が流行していた頃を指すのでしょう。この歌は、宣孝が亡くなった年の7月か8月頃に詠まれたと推測されます。「いつ死ぬかわからないと覚悟はしていながら、朝顔の露と競い合うようにして人が死んでゆくのを悲しんでいます」との歌意です。
直接的に夫の死の悲しみを指したものではありませんが「朝顔の露と競い合うようにして人が死んでゆく」の「人」の中には、夫も入っていたと思われます。
そして「いつ死ぬかわからないと覚悟はしていながら」との文字からは、紫式部自身も死の恐怖を感じていたことがわかります。伝染病の猛威は、紫式部の真近にも迫っていたのでした。
このところの紫式部の歌は、当初はあった伸びやかさや明るさをなくしてしまったように見えます。結婚生活の悩み、夫の死が紫式部からはつらつさを奪ってしまったかと思われるほどです。
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