「夫の前妻の子ども」が紫式部に"歌を贈った"真意 夫の宣孝亡き後、紫式部に言い寄った男性も
喧嘩が絶えない夫が亡くなり悲しみに暮れる
長保3(1001)年4月、紫式部の夫・藤原宣孝は、病でこの世を去りました。紫式部のもとには、宣孝との実子・賢子が残されました。
生前はいがみ合うこともあった紫式部と宣孝ですが、夫が亡くなり、紫式部は深い悲しみを抱えます。このとき紫式部は「見し人の煙となりし夕べより名ぞむつましき塩釜の浦」と、歌を詠んでいます。「夫が葬られて煙となった夕べから、塩釜の浦という名さえ懐かしく思われる」という意味です。
塩釜(塩竈)とは、現在の宮城県の地名。この歌の詞書には「世のはかなきことを嘆くころ、陸奥に名ある所々を書いたる絵を見て」とあります。夫・宣孝を亡くして、無常を嘆いている頃に、紫式部は陸奥の名所を描いた絵(屏風絵か)を見ていたのでしょう。
塩釜の浦では、製塩が行われていたので、塩を焼く煙が立ち昇っている絵だったのかもしれません。実際に宣孝と紫式部が塩釜を訪れたことはなかったと思われます。それでも、立ち昇る煙を見ただけで、火葬の煙を連想し、悲しみにふける。紫式部の亡き夫への想いが伝わってくるような一首です。
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