和歌より漢詩が重視されていた
「このぐらいの漢詩を作ったならば、もっと名が上がっただろうに。残念だったことだなあ」
和歌・漢詩・管弦のいずれにも秀でた藤原公任(きんとう)は、藤原道長が催した舟遊びのイベントで「漢詩が得意な人の船」ではなく「和歌が得意な人の船」に乗ったことを後悔したという。『大鏡』でつづられているエピソードだ(過去記事「「道長が対抗心むき出し」藤原公任の溢れ出す才能」)。
といっても、何も和歌で失敗したわけではない。その逆で、船の上で作った和歌の出来があまりによかったために、「同じレベルのものを漢詩で作っておけば、もっと高く評価されたのに……」と公任は残念がったのである。
平安時代においては、和歌よりも漢詩のほうが、男性の教養として重要視されていた。当時の公文書や学術書も、漢文によって書かれている。


















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