その一方で、紫式部が高く評価した才女が、歌人の和泉式部である。
和泉式部は、平安時代の中期に活躍したことはわかっているが、生没年も本名も明らかではない。
紫式部も同じく本名はわかっておらず、「紫式部」の名は父の職場だった「式部省」からとられたとされている。和泉式部の場合は、夫の官職からその名が取られたようだ。夫は和泉国守を務めた橘道貞である。
和泉式部といえば『小倉百人一首』に収録されている次の和歌が有名だ。
「あらざらむ この世のほかの 思ひ出に いまひとたびの あふこともがな」
現代語訳をすると「わたしはもうすぐ死んでしまうでしょう。わたしのあの世への思い出になるように、せめてもう一度だけあなたにお会いしたいものです」というもの。『百人一首』の歌の中でも情熱的な歌ともされている。
恋に生きた和泉式部
この歌からもわかるように、和泉式部は恋に生きた女性だった。結婚後は小式部内侍という娘を産むが、そのときに人からこう聞かれたという。
「父親は誰に決めましたか」
ずいぶんと失礼な質問だが、それだけ男性との交流が多かったようだ。
小式部が生まれた翌年、和泉式部は、冷泉天皇の第三皇子にあたる為尊親王と恋に落ちる。夫の道貞とは離婚。さらに父からも勘当されて見放されてしまう。
それだけでも十分インパクトのある恋愛話だが、為尊親王が病死するという不幸に見舞われると、今度は為尊親王の弟・敦道親王とも、恋仲になるという奔放ぶりを見せた。
敦道親王が死去すると、宮仕えすることになった和泉式部。寛弘6(1009)年に、一条天皇の中宮・彰子のもとに出仕している。紫式部が彰子に仕えたのは寛弘2(1005)年頃だから、2人は同僚ということになる。
そんな和泉式部のことを、紫式部は「和泉式部といふ人こそ、おもしろう書きかはしける」と『紫式部日記』に書いて、その文才に一目置いている。
続いて「和泉はけしからぬかたこそあれ」と書いており、「和泉にはちょっと感心できない点があるけれども」と恋愛スキャンダルについては思うところがあるようだが、こう続けている。
「うちとけて文はしり書きたるに、そのかたの才ある人、はかない言葉のにほひも見え侍るめり。歌は、いとをかしきこと」
「うちとけて文はしり書きたる」は「気軽な気持ちで手紙を書いたとき」という意味で、かしこまることなく自然と「そのかたの才ある人」、つまり、文筆の才能を感じさせるとしている。
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