「夫の前妻の子ども」が紫式部に"歌を贈った"真意 夫の宣孝亡き後、紫式部に言い寄った男性も
「門叩きわずらひて帰りにける人の」と歌の詞書にあり、紫式部の家の門を何度も叩いたものの、中に入れてもらえず、虚しく帰っていった男性がいたようなのです。
その男性は、翌朝、次のような歌を贈ってきました。「世とともに荒き風吹く西の海も磯辺に波は寄せずとや見し」と。「いつも荒々しい風が吹く西海の海辺でも、海岸に波を寄せつけないということはありませんでした」という意味です。紫式部から手ひどく拒絶された男性の恨みとも怒りとも取れる歌意です。
この男性は西海の状況を知っているようなので、西国の受領を務めていた人物かもしれません。
紫式部は男性に「かへりては思ひ知りぬや岩かどに浮きて寄りける岸のあだ波」と返歌しています。「虚しくお帰りになり、こういう女性もいるのだということがおわかりになりましたか。女性のところと言えば、言い寄ってこられるあなたは」との意味で、紫式部に男性を受け入れる余地がなかったことが読み取れます。
諦めきれなかった男性に対する反応
それでも男性は諦めきれないようで、年が明けてから「門は開いたでしょうか」と言ってきたようです。
これに対し紫式部は「誰が里の春のたよりに鶯の霞に閉づる宿を訪ふらむ」(どなたのところを訪ねたついでに、喪中で籠もる家を訪れたのでしょうか)と詠んでいます。
男性に対する紫式部の歌を見ていると、喪が明けていない最中から言い寄ってくる強引さへの嫌気もあった一方で、ほかの女がいながら自分(紫式部)にも言い寄ってくる男性の節操のなさに嫌悪感も抱いていたように感じます。
これら一連の歌から、1001年の下半期から、すでに未亡人である紫式部に言い寄る者があったことがわかります。また、これらの歌以外に、この男性とのやり取りはないので、男性は紫式部に完全に拒否されたのだと思われます。
その男性は翌年(1002年)の後半には、紫式部への想いを断って、また別の女性にアプローチしていたかもしれません。生前に浮気していた夫とのことを思い出し、浮気者はもうたくさん!との想いが紫式部にあったのでしょうか。それよりは、死別の悲しみや、幼き娘とどう生きていくかといった悩みで、紫式部の胸はいっぱいになっていたと推測されます。
(主要参考・引用文献一覧)
・清水好子『紫式部』(岩波書店、1973)
・今井源衛『紫式部』(吉川弘文館、1985)
・朧谷寿『藤原道長』(ミネルヴァ書房、2007)
・紫式部著、山本淳子翻訳『紫式部日記』(角川学芸出版、2010)
・倉本一宏『紫式部と藤原道長』(講談社、2023)
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