「夫の前妻の子ども」が紫式部に"歌を贈った"真意 夫の宣孝亡き後、紫式部に言い寄った男性も
宣孝には前妻がいて、子どももいました。その前妻の子どもから紫式部のもとに歌が贈られてくることもありました。
紫式部が詠んだ歌の詞書には「亡くなりし人の娘の親の手書きつけたりけるものを見て、言ひたりし」とあります。
この亡くなりし人(宣孝)の娘というのは、紫式部の子・賢子のことではありません。賢子は999年に生まれたと考えられています。宣孝が亡くなった年(1001年)は、まだ幼児。歌を詠めるはずがないため、前妻の娘のことでしょう。
前妻の娘は宣孝が生前に書いたもの(筆跡)を見て、そのときの想いを次のような歌に詠んだのでした。
「夕霧にみ島隠れし鴛鴦(をし)の子の跡を見る見るまどはるるかな」
鴛鴦(をし)というのは、おし鳥(カモ科の水鳥)のことです。
夕霧が立ち込めるなか、背を向けて島陰に消えていく、おし鳥。そのおし鳥の子は、跡を追うものの、夕霧のため親鳥を見失ってしまう。亡き父を慕う娘の想いや、心細さというものがよく表現されています。
前妻の娘が紫式部に歌を贈った理由
前妻の娘が、継母である紫式部にこのような歌を贈ってきたということは、前妻の娘のなかに、この人(紫式部)なら私の胸中をわかってくれるに違いないという確信のようなものがあったのでしょう。紫式部と前妻の娘は、宣孝が生きていた頃に、ある程度親しく付き合っていた可能性もあります。
またこの前妻の娘は、桜の季節になると「主人のいない家はたちまち荒れ果ててしまいましたが、桜は去年を忘れず、咲きました」と桜の枝を贈ってきてくれることもあったようで、それを見て紫式部は「散る花を嘆きし人はこのもとの淋しき事やかねて知りけむ」と歌を詠んでいます。
「散る花を嘆かれていたあの人は、ご自分が亡くなった後に、子どもたちが寂しい想いをすることを前々から知っていたのだろうか」といった意味になります。
また、この歌の注には「思ひ絶えせぬと亡き人の言ひけることを思ひ出でたるなり」(あの人はいつも心配事が絶えないと言っていたことを思い出した)と記されています。
前妻の娘は、もう年頃の女性であったはず。結婚も視野に入っていたでしょう。そうした娘が嫁ぐ姿を見られなかったことは、宣孝としても、さぞ、心残りだったに違いありません。宣孝の前妻の娘は、藤原道雅(藤原伊周の子)の妻になったと推測されています。
夫の死を悲しむ紫式部でしたが、早くも求婚者が現れたようです。
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