村上春樹『風の歌を聴け』が表現する日本的感性 「他人とは分かり合えない」から始まる人間関係
藤井:でもそれは、絶望的状況なんだけど、この村上春樹の『風の歌を聴け』は、絶望はしてない。人と人が分かり合うこともできないし、人が人を本当に助けることなんてこともできない。だけど、例えばジェイズ・バーで、おいしくビールを飲む、あるいはパスタを湯がく。たかだかパスタだけど、美味しく作る。なんかそこにね、ミクロな日常のなかに真実がある。
その真実を誠実に一つずつ拾い集めて生きていくところからしか出発できないし、その真実がどれだけ小さなものであってもその真実は真実であって、そんな真実があるにもかかわらず絶望している暇なんてないはずなんだ、っていうことを僕は村上春樹に教えてもらったんです。そこから出発して今の僕があるんだと思うんです。
「相対主義」とは違う「無常」
川端:今の柴山さんと藤井先生の議論を聴きながら、はっきり分かってきたことがあります。さっき浜崎さんが、春樹の作品の登場人物は「葛藤」と直接向き合わないという話をされていて、確かに僕もそういう印象があったのですが、それって要するに一種のシニシズムですよね。で、僕は本を読みながらけっこうボールペンで書き込むんですけど、どっかに漢字で「冷笑」って書きかけて、なんか違うなと思って止めたんです。シニカルというのは冷笑的と訳されますが、春樹の小説の登場人物はシニカルで冷たいとは思うものの、「笑う」感じはないんですよ。ポストモダン的な「冷笑主義(シニシズム)」は、全てをネタにして笑い飛ばしてしまおうみたいなところがありますが、村上春樹のシニシズムはどうも「冷笑」とは違う。
藤井:ちなみにそれでいくと、僕が村上春樹に出会うまでの17、8年間生きてきたなかのいろんな絶望のなかの一つに、もちろん、ポストモダン的絶望もあります(苦笑)。冷笑することによる、ある種の不誠実さが、心底嫌いだった。
川端:分かります。ポストモダン的な冷笑主義者の「笑い」って、噓なんですよね。その、社会や世界を突き放したようなぬるい笑いは、お前の本当の感情じゃないだろうって思うから、すごく嫌いなんです。ところが春樹は冷笑の「笑」の方を描かないから、なんというか、同じシニシズムでも清潔で誠実な感じがするわけです。
藤井:一番重要なのは、誠実、真摯であること。それが村上春樹の小説なんですよ。
川端:村上春樹はもちろん典型的な現代小説を書いているわけですけど、ある意味で日本の古典的な倫理を背負ってもいるのかもな、と思った箇所もあります。例えば第三十八節の最後に「あらゆるものは通り過ぎる。誰にもそれを捉えることはできない。僕たちはそんな風にして生きている」とあって、これはポストモダン的に読むこともできるんでしょうけど……。
藤井:日本の『方丈記』のような……。
川端:そうそう、鴨長明とかの、無常観に根ざした倫理が浮かび上がっているような気がするんです。シニシズムは「犬儒主義」とも訳すじゃないですか。もともと「シニック」の語源はギリシア語で「犬」を意味する言葉で、犬みたいに自然に身を任せて生きる主義をシニシズムと言ったようです。村上春樹はそれに近い意味で、日本的なシニシズムの現代的な顕れを描いている感じがします。
藤井:「風の歌」の「風」っていうのは、『方丈記』の「ゆく河の流れ」なんでしょうね。
川端:このタイトル、僕はめちゃくちゃ良いと思うんですよ。「風の歌を聴け」って、一般的な村上春樹のイメージには反する解釈だと思いますが、よくよく考えるとすごく日本的な感性でしょ。
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