「エモい」「キモい」を文章で気軽に使う危うさ 手軽な表現ゆえに「断絶」させてしまうものも
とにかく「キモい」と言っておけば、いい感情を持っていないことが伝わるし、相手を拒絶できる。「エモい」と言っておけば、なんかいい風に感動しているんだなと伝わる。むしろ、明確に何がどうでキモいだとか、何がどうでエモいのか説明しないことで曖昧に感情を伝える意図すら感じる。そんな言葉だ。
では、なぜこれを「断絶の言葉」と呼ぶのか。いったい何と断絶するのか。
それは自分の感情だ。あまりにこれを使っていると自分の感情に気づけなくなってしまう。だから断絶と表現している。
「キモい」
何かに対してそう思ったとき、本来はなぜそう思うかが大切なのだ。気持ち悪いと思った理由、背景、それはもしかしたら他責的な思考で、自分の心に内在するトラウマ的な何かが原因かもしれない。
あまり良く思っていない感情にも多くの付随する感情があるはずだし、本来はこちらのほうが重要なのだ。それはあなたが世界をどう見ているかに繫がる貴重な情報なのだ。
しかし、それだけでなんとなく済んでしまう「キモい」は、自分のその良くない感情を紐解く意志を奪っていく。
大谷翔平選手がサラリとかわした「ある問いかけ」
「エモい」についても同様で、なんだか感動的な場面に接したときに使われることが多いが、本来はなぜここで自分の感情が動くのか、なぜ心の琴線に触れるのか、その感情のほうが重要なのだけど、あまりにその言葉が強い意味を持ち始めた「エモい」はそれを奪う可能性を含んでいる。
文章を書いて何らかの形で発表するということは、読む人の心を動かしたいということだ。これから文章で人の感情を揺さぶろうとする人間、それが自分の感情に無自覚だったとしたらどうだろうか。自分の感情に気づけない人がどうやって人の感情を震わせるというのか。
ここで大切なのは、別に「キモい」や「エモい」を使って書かれた文章がダメだとか、その言葉を使っている人は良くないと言っているわけではない。ただ、自分の中で明確な線引きをして、こういう理由だから使わない、と決めることこそ自分の感情に向き合っていることになるのだ。思想はそれがいつしか言葉になり、行動になり、習慣になっていく。そう自覚していくことが大切なのだ。
アメリカ・メジャーリーグの大谷翔平選手がNHKのインタビューにおいて「前回は下位のチーム相手に取りこぼしましたが」と質問された。すると、大谷選手は「取りこぼすという表現が適切かどうかわかりませんが」と、サラリと否定して話を続けた。
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