上手で流麗な文章が「まるで読まれない」根本原因 珍しいエピソードよりも熱烈に意識すべきこと

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誤解なきよう言っておきたいのは、こういった日常の事実が悪いということではない。事実は事実でいいのだ。その「5000円落とした」という事実はたいへんに悲しいことで、筆者にとってショックなことだった。けれども、その「事象」自体に希少性はない。つまり価値がないということだ。

これが、あまり日本人が行ったことがない場所、マニアックな国だとか宇宙ステーションだとかそういった場所で5000円を落としたのなら、その情報には価値がある。だれしも、宇宙ステーションで5000円を落とした話は聞きたい。果たして落ちるのか、浮いたりするんじゃないの、それは落としたという表現でいいの、と興味津々だ。

また、誰もが知っているような著名人やアイドルなどが「5000円を落とした」と書くことには意味がある。それを読みたいと思う人がたくさんいるからだ。

ただ、希少な場所でもない、そのへんのよく知らない一般人が「5000円を落とした」ことにあまり情報としての価値はなく、人は読みたいと思わない。

では、どんなものを読みたいと思うか。

それは、その人の主義主張が入った文章だ。たんなる感想ではなく、その事象を受けてこの人はなにを伝えたかったのか、それが込められた文章はただの日記とは一線を画する。この伝えたいことの有無こそが、人に読まれるために書かれた文章と、そうでない単なる日記との明白な違いになる。

どんなに日記のようだったとしても、自分以外に見せようと何らかの意図をもって書かれた場合、そこには何かしら伝えたいことが潜んでいるものだ。ただ、それを書く人が意識していないから、なにも響かない文章になってしまうのだ。

「綺麗なだけの文字列」を文章とは呼ばない

一度、原点に立ち返って考えてみよう。なぜ僕らは文章を書くのだろうか。

それは伝えたいことがあるからだ。人は伝えるために生きている。あらゆるコミュニケーションは伝えるために存在する。それをなるべく多くの人に向けてやろうと試みることが文章を書いて公表することだ。

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