その衣服をAが隠しても自分で洗っても、母親はその異変に気づかなければなりませんでした。日時が日時です。執拗なAに殺されると怖がり、転校して行った友もいたのに、Aの部屋にある「犯行ノート」すら、淳君事件で捜査員が家宅捜査するまで、気づいていません。
挙げればキリがありませんが、事件当時、私が抱いたAの両親への同情は、このたび随分形が変わりました。ここまでくると、子育てにおける善管注意義務を果たしていない、と厳しく非難されても仕方ないでしょう。少なくとも義務教育の間は、単に学校に送ってご飯を食べさせることだけが親の義務ではなく、子供の異変を察知して迅速に対応するのも義務教育の範疇にあるはずです。
酷な言い方ですが、Aの母親は暴走する少年と伴走していたようなものです。もちろん少年犯罪の全てが家庭環境に起因するはずもなく、中には親の努力ではどうにもならないケースもあることでしょう。また手記やメディアでは明らかになっていない数多くの個別事情があることは想像に難くありません。
そう断ったうえで一般論として再認識したいのですが、育児の基本は第一に、自分のやり方で愛することではなく子供の「安全基地」であるように、子供への愛情の注ぎ方を考えたいものです。
「『少年A』14歳の肖像」(高山文彦著)によりますと、医療少年院でAと深く関わった人の話として、「Aは愛情に飢えていた。関係者の話し合いでは、いつもそこに話が戻る。Aは親からまったく愛されていないと思っていた」(筆者要約)そうで、「あの子を赤ん坊に戻したほうがいい、皆でベタベタ愛情を注いでやろう」という話し合いが成されたそうです。
また、親の想いと子供の受け止め方に、信じられないほどのギャップが生じうることを心にとめなければなりません。親は子供によかれと思ってしても、子供が主観的にそう感じなければ「安全基地」に亀裂が入り、親子の信頼関係が揺らいでしまうことが多いのです。今回の絶歌に目を通すと、最後の最後まで、自分の両親に対する謝罪の言葉がありません。
親は子どもの異変のセンサーであるべき
最後に、繰り返します。子供を信じることは大切ですが、異変に目をつぶってはいけません。子供の異変に真っ先に気づく、「異変のセンサー」の役割を果たさなければなりません。Aにしつけで厳格だった母親ですが、同時にAの重なる恐ろしい嘘には甘すぎました。子供の異変に神経をとがらせ、早期に軌道修正してあげられる関係を日ごろから構築しておくことも親の重要な役割だと思います。
「絶歌」や「『少年A』この子を生んで・・・・・・」を読んで痛感するのは、子供に「安心感を与えられているか」「愛情を愛情と認識されているか」「子供の異変に気付けるか」ということを自問することの重要性です。一見すると平凡な家庭で発生していることを思えば、どのような家庭の親であっても、子どもの教育について自問しなければならないのです。
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