「土下座・先生・牛・全裸」の深い歴史 『誰も調べなかった日本文化史』を読む
ああ、もうマッツァリーノ先生のおっしゃる通り。日本は豊かにはなったが、肝心の心を失ってしまった、昔は貧しくとも大家族で笑顔でくらしていた、誇り高く礼儀正しく生きていた云々かんぬんが、近年やたらと目につくのである。
捏造が歴史に埋もれてしまう恐ろしさ
昔を懐かしんで楽しく酔っぱらって寝る、というだけなら罪もないが、捏造した歴史をもとに未来を決める政策がまかり通り、はたまた捏造した美しき国をもとに他国を見下げて歩く、となるとやっかいである。じつにやっかいである。ほんと、誰か止めてください。
というわけでマッツァリーノ先生の出番だ。
『反社会学講座』『反社会学の不埒な研究報告』等々、世に流布し定着してしまっている捏造や思い込みを、次々に暴きだしてきた先生。毎度毎度面白く、膝を打つばかりなのである。
先生曰く、「キレる若者」「増加する少年犯罪」と言われて久しいが、実際には昭和35年に17歳だった世代こそが、若い頃の犯罪率がとてつもなく高かったこと。「今の若者は嫌な仕事はすぐ辞める」というが、高度経済成長期の若者もすぐにやめるし、江戸時代はみんなフリーター。「ゆとり世代」とかいって学力低下を嘆くが、1960年代からすでに大学生の学力低下が叫ばれっぱなし。
理想とする子供の数と現実に産む数が一致した時代は、人類史上一度もなく、昔の日本人も生活水準を保つために子供を持とうとしなかった。
そして本書だ。サブタイトルに飛びつく。土下座・先生・牛・全裸。
他の国には見られない、日本独自のエンターテインメントとしての「謝罪会見」から「土下座」の歴史をひもとき、土下座の変質を暴きだしている。日本人にとって謝罪とはなんなのか。誠意とはなんなのか。土下座する相手に果てしなく誠意を問い続けて、「人を罰する」という楽しみをむさぼらせてくれるエンターテインメントは、土下座の価値を下落させカジュアル化させてしまったのである。もうあっちもこっちもあやまれあやまれの大合唱になる一方で、「許し方」を忘れていく社会のありようが浮き彫りになる。
「誠意があるか。」と問うことは、その人に対して非礼である。
もしその人に誠意がないならば、「誠意があるか。」と問うことは、
その人に対して全く無意味である。”
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