「土下座・先生・牛・全裸」の深い歴史 『誰も調べなかった日本文化史』を読む
土下座は本来、宗教儀式やよほど高貴な方にのみ向けられた礼法であった。したがって土下座なんぞ滅多にお目にかかるもんでもないというのが本当で、江戸時代の大名行列でさえ、這いつくばった土下座で送るというのは「時代劇のうそ」なのである。300あまりもの藩が次々に格式に応じた行列を仕立てて参勤交代で登城してくるのに、全部カエルのように平伏して延々見送っていたら、江戸の町はまるで機能しなくなるだろう。
言われてみればそうですよね。毎週毎週東京サミットやって東京マラソン走って隅田川で花火上げて国賓お招きして、いちいち交通規制、みたいな感じですかね。ではどうしていたか。えっ、そんなんでよかったの? という庶民のお作法については本書をご覧ください。
そのほか昭和30年代まで見られた牛車(うしぐるま)から遡って、いつの世も変わらないお上と庶民の果てしない攻防、これまた昔から意外と自由度が高かった子供の名付け方の歴史に見え隠れするキラキラネームの片鱗。
「亡国論」は私憤を大義にすり替える装置
そして数千年の昔から、手を変え品を変え、人々の心を惑わす「終末論」や「亡国論」。
「女子大生亡国論」「フリーター亡国論」「セックス亡国論」「食パン亡国論」「ランプ亡国論」「こたつ亡国論」「沢庵亡国論」エトセトラ。(なんでそんなもんで滅びるのかは、本書にざっと書いてあります。)
マッツァリーノ先生が頑張って数えてくださったところによれば、2000年代になって亡国論やら「〇〇が滅ぼす」の雑誌掲載記事が爆発的に増加しているそうである。「滅ぶぞ滅ぶぞ記事」をたくさん寄稿している執筆者ベスト6も紹介されているのでこちらも本書でご覧ください。
嘘やら捏造は思うより容易に蔓延する。が、それを正すのは実に手間とコストがかかる。嘘は言いっぱなしだが、反論はいちいち論拠をそろえなくてはならないからだ。なおかつ、反論によって論理的に白黒ついても、「いや、白黒つけるのも野暮だよね。」「諸説あるよね」と、悪しき中立主義が出てくる。ウソとホントの真ん中に立とうとする人間は、結果的にウソの味方なのだ。そうした隙をついて、今日もいろんなことが自覚的にも無意識にも捏造され続けているのだろう。
軽妙な文体に声をだして笑いながらマッツァリーノ流歴史社会学に浸る。つまらない思い込みを捨てて虚心坦懐にものをみることの清々しさを思い出させてくれる一冊である。
(※本書は『パオロ・マッツァリーノの日本史漫談』の文庫化です)
記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら
印刷ページの表示はログインが必要です。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら
無料会員登録はこちら
ログインはこちら