道長が「試験官を監禁」改ざん迫る呆れた行為 兄である道兼の息子たち3人も次々とやらかす

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しかし、実際に凶暴だったのは、道兼の子どもたちのほうだった。

『大鏡』では、長男の福足君(ふくたりぎみ)について、はっきりと「いとあさましう、まさなう、あしくぞおはせし」と書いている。現代語訳すれば、次のようになる。

「あきれるほど行いがひどく、見苦しく、悪い子でいらっしゃった」

「をさなき人はさのみこそはと思へど」ともあり、小さい子はそういうものなのかもしれないが、それを踏まえてもなお、悪童だったらしい。

道兼の長男は蛇をいじめて夭折

藤原兼家が60歳を迎えて、その祝宴が行われるときのことだ。福足君に舞を舞ってもらおうと、祝宴にそなえて習わせていたという。

「やりたくない」と何かと抵抗する福足君の機嫌を取りながらも、舞を身につけさせて、なんとか当日に間に合わせた。

ところが、いざ舞台に立って、楽器が最初の音を奏でると、「いやだ、私は舞わぬぞ」(「わざはひかな、あれは舞はじ」)と言い出したという。

小さい子に無理やり何かをさせようとすれば、大人の思うようにはいかないだろうとは思うが、その抵抗の様子がすさまじかった。結った髪を引きむしって、御装束をびりびりと破ってしまったのだ。父・兼家の前での大失態に、道兼が青ざめたのも無理はないだろう。

この誰もが気まずい場面で、機転を利かせたのが、頼れる長男の道隆である。突然に舞台へと登ると、福足君をうまくなだめながら、自分も一緒に見事に舞ってみせたのだ。これには兼家も満足し、道兼はもちろんのこと、ほかの人もみな感動したという。

それでも、福足君の素行が改善することはなかったらしい。『大鏡』では「蛇れうじ給ひて、そのたたりにより、頭に物はれて、失せ給ひにき」とある。蛇をいじめた祟りによって、頭に腫れ物ができて、福足君は若くして亡くなったと伝えられている。

夭折した福足君に代わって、道兼の嫡男として育てられたのが、次男の兼隆だ。紫式部の娘、藤原賢子と結婚したことでも知られるが、兼隆もまた乱暴者だったらしい。

『小右記』では長和2(1013)年の8月10日の記事に「藤原兼隆が厩舎人を殴り殺させた」と書かれている。

厩舎人とは、主人の馬を世話する従者のことだ。自分の日常生活を支えてくれている存在に、暴力を振るって死なせるなど、あってはならないことだろう。このとき兼隆は29歳と、十分に分別がつく年だったにもかかわらず、である。

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