しかも、哲学的思考はその哲学者の世界に対する態度と密接な関係にありますので、その態度がちょっとでもズレると、「どうにか字面を理解することはできるが、まったく同意できない広大な領域」が広がっている。
ほとんどの哲学(研究)者は、自分の専門の狭い領域を超えると、たちまち「どうして、ああいう考え方をするのだろう、できるのだろう?」と呟き頭を抱えながら生きていると言っても過言ではないのです。
どうでしょうか? 科学(科学者)と哲学(哲学者)の違いが、ぼんやりとでもわかってもらえたでしょうか? とりわけ、哲学の「いかがわしさ」の一端でもわかってもらえたなら幸いです。
興味を持ちながら、徹底的懐疑は避けている
そして、いま言ったことは、そのまま哲学と文学との境も示しています。哲学のテーマは割とはっきり決まっていて、「存在」とか「認識」とか「善悪」、もう少し具体的に言うと「時間」とか「自我」とか「言語の意味」であって、こうした問題に全身で携わっていなければ、あとはどんなテーマにおいて天才的な洞察を示しても、哲学者とは言えない。
この意味で、ヒトラーやガンジーが哲学者でないのは当然としても、ダーウィンやアインシュタインも、科学的方法と科学的対象に全身拘束されているがゆえに、哲学者ではないのです。
まったく同じことが文学者にも言えるのですが、小説家や詩人や評論家は同じ「言葉」を扱うので、哲学者との線引きがいい加減になされることがある。しかし、もう説明するまでもないでしょうが、いかに壮大な歴史物語を描いても、いかに人間心理の機微を抉り出しても、いかに言語の限界に挑戦しても……哲学の古典的問いのうちの1つでもいい、たとえば「存在とは何か?」について、「時間とは何か」について、頭が変になるほど思考していなければ、哲学者ではないのです。
最近、読書会も開催しているのですが、『カラマーゾフの兄弟』の「大審問官」のところをあらためて読了して、「アリューシャ、神はいるのか?」と気軽に(「いる」の意味を吟味せずに)イワンに言わせているドストエフスキーが、哲学者でないことを再確認しました。
同じように、トルストイもシェークスピアもカフカもカミュも、そしてわが国の森鴎外も夏目漱石も三島由紀夫も芥川龍之介も哲学者ではない。彼らは、あまりにも人間に興味を持っている。興味を持っていながら、徹底的懐疑は避けている。もしかしたら、「人間はいないかもしれない」など思ったこともない。「『見える』とはとても不思議なことだ」とか、「想起とは過去の事象とは無関係であって、いま起こっていることだけなのかもしれない」とか・・・・思い詰めることはない。
それなりに、(場合によっては狂気に近づくまで)悩んでいるのですが、哲学的には「常識」をしっかり守っている。たとえ存在論らしきもの、認識論らしきもの、時間論らしきもの、自我論らしきものを展開することがあっても、「常識」を出ず、その「常識」の内部で聳える塔を打ち立てている、といった感じです。
そして、前回に繋がりますが、とくにフランスの現代思想のごく近くにいたブランショ、クロソフスキーなど、いやラカンやフーコーですら、ベルクソンやサルトルなど正真正銘の哲学者と並ぶものではないと私は思っているのですが、これは専門的になるので、やめておきましょう。
というわけで、哲学塾では、厳密な意味での哲学書のみを読んでいます。しかも、いかに難解でも、掛け値なしに超一流のもののみを……。
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