芥川も三島も漱石も、「哲学者」ではない理由 理解し合えても、賛同し合えない哲学者たち

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科学はとにかく「科学的方法」というものが確立している。しかし、哲学の場合、確立された(お墨付きのある)方法は、まずないと言っていいでしょう。科学が期待する意味で、学べば万人に同じように「理解できる」哲学などないのです。

どうしてかというと、哲学の道具は「言葉」だけであり、その言葉の意味を万人が同じように学びえないから、と言えましょう。哲学の専売特許である「存在」とか「無」とか「善悪」という言葉は、無限に開かれていて、こうした言葉を使用する文章もまた無限に開かれていて、それを学ぶ方法が確立されていないのですから、その唯一の意味を決定することは、原理的にできません。

そして、その理由はおのずからわかる。たとえば、氷に触って「熱い」と言い、電気ストーブにあたって「冷たい」と言う人がいるとしても、はたして彼が普通の人と反対の感覚を持っているのか、それとも同じ感覚を持っていながら、何らかの理由で言葉を反対に使用しているだけなのか、(本人にも)区別はできないからです。

理解し合えても、賛同し合えない

もちろん、そうは言ってもどうにか共通の基盤があるかのようなので、とにかく大学に哲学科があり、日本哲学会という学会もありますが、そこは一定の科学者集団とは異なって、根本的に相容れない考え方をした人間が集まっていて成立している、世にも奇妙な集団です。

そこでは、人間が考えうるありとあらゆる馬鹿げたこと(たとえば、他人はいないとか、未来はないとか、世界はないとか……)が堂々とまかり通っている。そして、専門哲学者たちは、そういう馬鹿げたことを主張する「論理」は理解し合えるけれど、ただひたすら賛同し合えない。

そこで、まず論理の破綻を指摘し合うのですが、これはなかなかうまく噛みあわず、といって「私はそういう考えは嫌いだ」とは(心の中では叫んでも)表立っては言えないので、「おもしろくない見解だ」とか「陳腐な、月並みな、素人くさい、目配せの行き届かない、一方的な、ポイントを突いていない、論理が弱い、カントの亜流の、ただの寄せ集めの、全然説得力のない……見解だ!」と糾弾して、互いに自分以外の哲学理論を批判(非難、排斥、罵倒?)し合うわけです。

そして、これが成り立っているということは、「陳腐でない、月並みでない、素人くさくない、目配せの行き届いた、ポイントを突いた、説得力のある……見解」において、彼らがそれほど大きく揺らがないことを示している。

たとえば、フッサールやハイデガーやデリダ、あるいはウィットゲンシュタインやデイヴィドソンやクリプキが大嫌いな哲学(研究)者は少なくないのですが、とはいえ自分がこうした有名哲学者より「偉い」と思っている御仁はほとんどいない。

そこに共通して認めざるをえないのは、それぞれ互いにかけ離れた仕方でかけ離れた内容を語っていながら、ケタ違いの思考力・言語力を持っていること、具体的には、哲学的問題がどこにあるかを嗅ぎ当てる鋭敏な嗅覚と、獲物を切り裂く見事なほどの切れ味を有していること、でしょう。

言い換えれば、これらをある程度兼ね備えていれば、どんな分野であろうと優れた哲学者になれる。たとえば「無」というテーマにしても、「考え抜かれた」という印象、「この思考力にはとてもかなわない」という印象を持たせるほどの言語の力を有していればいいのであり、これを見抜けるのは、みずから同じテーマを考え続けている人だけですが……。

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