施:ある元県知事のような話も、最近は多いですよね。九州でも災害でローカル線が寸断されると、「もう復旧するのはやめよう」というのが普通になってきています。
古川:北海道は完全にそうですよ。むしろ本当はずっと廃線にしたいと思っていたところに、都合よく災害が起こってくれたから、これ幸いと放置している感じがしますね。
施:ですよね。水道民営化でも今後はおそらくそうなるでしょう。水道管が破裂したら、「もう水道管直すのやめようぜ。田舎は捨ててコンパクトシティにしようぜ」みたいな感じで。
人間が頭でっかちになってしまったのと同じで、社会も、大都市だけがある程度栄えて、それ以外は荒野が漠々と広がる、みたいな感じになりそうですね。
迅速化のあげくオカルトに走る「覚醒存在」
中野:認知エリートって、本当に問題だらけだと思うんですよ。まず、彼らって頭がいいと思いがちだけど、実はそうでもないんです。
なぜなら、彼らはデジタルの0と1で処理速度を上げたがるんですけど、それって結局、複雑なことを考えずに、単純化して考えるほうが速いってこと。だから、官僚主義的になっちゃうんですよ。マックス・ウェーバーが言ったように、官僚制は問題を型にはめて処理するわけですから、事務処理スピードは迅速ですが、結局は定型的な思考になって、複雑な議論からは逃げてしまう。だから、頭は大きいけど、中身は空っぽ、ってことになるんです。
もう一つの問題は、認知エリートというのは、シュペングラーの用語で言えば「覚醒存在」と言って、頭でっかちでバランスが悪い。農業などをやって地に足がついている「現存在」とは違う。だから、シュペングラーによると、「覚醒存在」は、そのバランスを取るために、格闘技などのスポーツに夢中になるらしいです。シリコンバレーの連中みたいに、オカルトやオーガニック、民間療法にハマる傾向もあるが、それも同じことかもしれない。なんか、認知エリートの世界だけでは満足できなくて、超合理主義から一転、超自然的なものに走るんですよ(笑)。
佐藤:これは『新自由主義と脱成長をもうやめる』でアメリカを例に挙げて論じたことですが、近代の根底にあるのは「現実は自分の主観的認識に応じて、いくらでも作り変えることができるはずだ」という信念なんですよ。
社会や国家を巨大な人体に見立てる「ボディ・ポリティック」の概念を踏まえて言えば、現在の社会は脳と神経だけが異常に過敏になって、残りの肉体が壊死しはじめている状態だと思います。反射的な情報処理は素早いが、だからこそすべてに実体がない。その空虚感を埋め合わせるべく、スポーツやオカルトにハマるのでしょう。
中野:そう、反射的になっているんです。