中野:だから、とある元県知事のように「過疎地から移住しろ」と言う人間もいますが、しかし地方のほうが時間がゆったり流れているから、人間的にはいいかもしれない。このように、今の時間感覚の問題って、実はかなり深刻かもしれないなという気がしました。
認知エリートが社会のバランスを崩す
佐藤:過疎地のインフラ復興はコスパが悪い、だから被災者には移住してもらおうというのは、『新自由主義と脱成長をもうやめる』で施さんが取り上げた「エニウェア族」の物の考え方ときれいに重なります。
エニウェア族とは、自分はどこででも暮らしてゆけると思っている高学歴層を指す言葉ですが、被災者移住論はまさにこれ。住み慣れたところを捨てて、見知らぬ土地に移住しても問題は起こらないと構えるわけですからね。特定の地域に根を下ろして生きる人々、いわゆる「サムウェア族」とは発想の根本が違う。
施:エニウェア族、サムウェア族の区分を作ったのはイギリスのジャーナリストであるデイヴィッド・グッドハートという人ですけれども、彼は少し前に『頭 手 心』という本も書いています。そこでは、現代の世の中というのが、まさにエニウェア族的な認知的エリート、つまり学歴が高くて専門職に就いてる人たちが過度に社会的影響力を持っている一方、手を使う仕事――つまり製造業や農業などの仕事――や、心を使うケアの仕事の人々の社会的影響力は小さく、全体的なバランスが崩れていると指摘しています。頭でっかちな認知的エリートの声ばかりが大きくなって、それが時間感覚にも関係しているのかと感じます。
認知的エリートの仕事は、依然と比べ、確かにどんどん速くなっている。昔はメールすらなかったですが、学生など若い世代とやり取りしているとメールすらまどろっこしいという者が多いですね。既読が付かず不安になるので、せめてLINEを使ってくれ、みたいな感じなんです。
池波正太郎の時代小説などを読んでいると、江戸時代は、人と会うためだけに宿に1週間ほど泊まり込んで、その人と連絡が取れるのを待つ描写がよくあります。その後は、手紙、電話、メールなどで連絡を取るようになりましたが、今ではLINEでも即座に反応がないと苛立ってしまう。
社会のバランスがやはり崩れ始めていると思います。認知的エリートだけでやっていければ、それでもいいのかもしれませんが、そういう人は社会の多数派ではありません。彼らの存在自体が、いろいろなそれ以外の人々、例えば農業などに支えられています。認知的エリートだけが強くなってしまった社会はかなりバランスが悪く、もろい感じがします。