履歴書に書かれた名前や、教室の講師としてあげられた名前、商品の売り手の名前が男性の名前であれば、それらが女性の名前であった場合と比べ、たとえ名前以外のすべての条件が同じでも、求職者や講師の知性や能力も、商品の質も高く評価される。
ある特定の人種や国籍をイメージさせる名前でも同じ結果だ。さらには、研究者がつくった完全に架空の条件であってもこの結果は変わらない。
移民がしばしば名前を変えるのも、移民先の社会に適応するためだ。私自身、この本の著者略歴を書くにあたって、どの名前を使うかでかなり悩んだ。
ルーマニア語の名前である「ビオリカ」を使うと、英語話者の耳には「なじみのない民族の人」という印象を与えることはわかっている。私はアメリカに暮らして30年以上になるが、その間に何度も、ビオリカを名乗るとなかなか興味深い(と表現することにしよう)推測をされてきた。
たとえば子どもを公園に連れていくと、私は異国風の名前で、英語に訛りがあり、そして黒髪だが、子どもは肌が白くて瞳が青いために、周りの人は私のことを子守に雇われた人だと推測する。
そのおかげで、他の子守たちから、ご近所のうわさ話をいろいろと聞くことができた。私も同じ子守だと思い、安心して話すことができたのだろう。
「名前」の印象がもたらす偏見
この本の著者名については、ファーストネームはイニシャルだけにして、ラストネームをファーストネームとして使うことも考えた。
作家のアーシュラ・K・ル=グウィンは、短編小説の『九つのいのち』を出版するときに、ファーストネームはイニシャルだけにして、著者名をU・K・ル=グウィンと表記してほしいと頼んだそうだ。
そうすれば、読者はこの物語を書いたのが女性ということがわからないからだ。
また、私はジョルジュ・サンドの作品を子どものころから読んでいたが、ジョルジュ・サンドはペンネームであり、名はアマンディーヌ=オーロール=リュシール・デュパンだということを知ったのは、もっと大人になってからだった。
しかし最近は社会の情勢も変わり、マジョリティではないだけでなく、あきらかにマイノリティの文化の名前で本を出版する人も増えてきている。私は結局、生まれたときに親からもらった名前を著者名にすることにした。
とはいえ、この本名もルーマニアのジェンダー・ステレオタイプを反映している。私の両親は、娘の名前は花にちなんでつけ、息子の名前は樹木にちなんでつけた。
両親もまた、他の多くの人と同じように、名前はその人のイメージや性格、ひいては人生そのものにも影響を与えると信じていた。これは社会の偏見を反映した思い込みであり、同時に偏見を強化する役割も果たしている。
(翻訳:桜田 直美)
記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら
印刷ページの表示はログインが必要です。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら
無料会員登録はこちら
ログインはこちら