歴史上の「絶世の美女」はどんな顔をしているのか 現代に残る絵巻物や浮世絵からわかること
さて、話は本題に戻りますが、この三好実休が、当時、形だけのトップであった細川持隆を殺害し、阿波の国(徳島県)の実権を握ります。そして、実休の正室として小少将は彼の元に嫁に行き、二人の間には三好長治と十河存保などの三人の男児が生まれました。
しかし、結婚して九年ほど経った一五六二年、実休も戦死してしまいます。
四国の権力者と次々と結婚した「小少将」
またもや夫を失ってしまい、次は頭を丸めて尼にでもなるのかと思われた小少将ですが、三十九歳の頃、三好実休の家臣であり、阿波・木津城主だった篠原自遁という人物と結婚します。なお、自遁とは実休が存命の頃から不倫関係にあったとも噂されています。現代では三十九歳という年齢はまだまだ若いですが、「人生五十年」と言われる時代に再婚を果たすとは、彼女の美魔女ぶりは相当なものだったのでしょう。
そんな中、自分が細川持隆との間に産んだ細川真之と、三好実休との間に産んだ三好長治という二人の息子が、阿波国を巡って殺し合いを始めてしまいます。父は違うものの、母は同じ。自分のかわいい息子二人が殺し合いを始めてしまったので、小少将の心持ちたるやどんなものだったでしょう。
細川真之は異父弟を倒すために、四国・高知県の有名な実力者であり、後に四国を統一する勢いを見せる長宗我部元親の助力を得、三好長治を追い詰めました。そして、一五七七年、長治は二十五歳で戦死します。
このとき、小少将は五十四歳です。彼女がどうなったかはよくわかっていませんが、一説によれば彼女は長宗我部元親の側室になって、長宗我部右近太夫という息子を産んだという説もあります。
しかし、小少将の年齢を考えると、五十代という年齢で子どもを産み、育てるのはなかなか大変です。たまたま元親の側室に同じ名前の人がいただけで、我らが小少将が彼の側室となり、子どもを作ったという話はウソではないかと思います。
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