【聖徳太子が制定】ではなかった? 「十七条憲法」や「冠位十二階」を実際に主導した"大物の正体"とは

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「十七条憲法」「冠位十二階」の本当の制定者は誰だったのか?(写真:BR01/PIXTA)
聖徳太子は「十七条憲法」や「冠位十二階」を制定しました――。誰もが歴史の授業ではこう教わってきたかと思いますが、駒澤大学名誉教授の瀧音能之氏によれば、聖徳太子こと厩戸皇子はそれらに関与はしたものの、実際の成立を主導したとは考えづらいそうです。
ではいったい、それらの制度の真の制定者は誰なのでしょうか? 瀧音能之氏の監修書『飛鳥の古代史 大化の改新と日本国誕生の謎を解く』から一部を抜粋・編集する形で、当時の政治状況を分析しながら考察します。

多分に脚色が加えられた「厩戸皇子」のエピソード

『日本書紀』では、33代推古天皇が即位した年に詔を発し、厩戸皇子に「万機をことごとく委ねた」とある。

しかし、推古天皇の大王位継承の有力候補とはいえ、593年に推古天皇が即位した当初から、厩戸皇子が政権に参画したとは考え難い。

厩戸皇子の出生年には諸説あるが、『帝説』の甲午年誕生説(574年)を取れば、厩戸皇子は、丁未の乱の時に14歳、推古天皇即位の時に20歳である。

約20年にわたって敏達朝で大后として政務を行い、大王位継承に深く関与した推古天皇や、大臣及び外戚として政権中枢にいた蘇我馬子に対して、弱冠20歳の厩戸皇子が推古朝発足時から重要な役割を担ったことは疑わしい。

『日本書紀』における厩戸皇子の事績については、仏によって守護されたエピソードや常人離れした能力の発揮など、6世紀の記述の中でも、多分に脚色が加えられた部分といえるだろう。

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