桐壺 光をまとって生まれた皇子
輝くばかりにうつくしいその皇子の、光君という名は、
高麗の人相見がつけたということです。
ふたたびの病
さて、桐壺(きりつぼ)の産んだ若宮が三歳になり、袴着(はかまぎ)の儀を行うことになった。先に儀式を行った第一皇子に引けをとらないよう、という帝(みかど)のはからいで、内蔵寮(くらづかさ)や納殿(おさめどの)からありったけの宝物を出して盛大に行われた。これにもまた、あちこちから非難の声が上がった。けれども、成長するにつれてはっきりしていく顔立ちも性質も、抜きん出てすばらしいこの若宮を、だれも憎めないのである。もののわかる人ならば、このような方がよくこの世にお生まれになったものだと、ただ呆然と目をみはるばかりである。
その年の夏、桐壺御息所(きりつぼのみやすどころ)はふたたび病にかかってしまった。療養のために実家に下がりたいとお願いするも、帝はいっこうに許可しない。この数年、ずっと病気がちだったので、帝にとってはそれがふつうのこととなっていたのである。「このまま、もうしばらく様子を見なさい」とくり返し言い聞かせているうちに、病気は日に日に重くなり、わずか五、六日のうちに急激に衰弱してしまった。女の母君が泣いて帝に嘆願し、やっとのことで実家に下がれることとなった。このような時でも、また嫌がらせをされるかもしれない、その巻き添えにするわけにはいかないと彼女は考え、若宮は宮中に置いていくことになった。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら