しきたりの通りに葬儀が行われ、亡骸(なきがら)を荼毘(だび)に付すことになった。母君は、娘の亡骸を焼くその煙といっしょに空に消えてしまいたいと泣き、野辺(のべ)の送りの女房の車を追いかけて無理やり乗りこみ、愛宕(おたぎ)という、厳かに葬儀の行われている場所に向かうが、いったいどんな気持ちであったことでしょう。
「亡くなったあの子の姿を見ても、まだ生きているように思えてならないのです。いっそ灰になるのをこの目で見れば、この世にはもういないのだときっぱりあきらめもつくことでしょう」
と健気(けなげ)にも言うが、車から落ちそうなほど全身で嘆き悲しみ、周囲の人々もどうしたらいいものやら、声をかけることもできない。
「なくてぞ」
そこに帝からの使いがやってきて、桐壺に三位(さんみ)の位を与えると、勅使が宣命(せんみょう)を読み上げる。そんな誇らしいことも、しかし悲しみを増すだけだった。生きているあいだに女御(にょうご)の位にしてあげることもしなかった、そのことが帝の心残りだった。せめてもう一段だけでも上の位に、と考えての追贈だろう。このようなはからいにも、すでに亡くなった人をまだ憎む女たちも多い。けれども、ものごとをわきまえている人は、桐壺更衣の姿や、うつくしい顔立ち、気立てのよさやこまやかな心遣い、憎もうにも憎めなかったその人柄に、今さらながら気づくのであった。見苦しいほどの帝の溺愛ぶりに、つい嫉妬してしまったけれど、やさしくて思いやり深かった桐壺を、帝のそば仕えの女房たちもみな恋しく思う。「なくてぞ」(「あるときはありのすさびに憎かりきなくてぞ人は恋しかりける」その人が生きている時はそこにいることが当たり前になってしまい、憎く思うことさえあったが、いなくなってしまった今は心から恋しい)とは、こういうことかと思うのだった。
次の話を読む:「亡き桐壺」に囚われる帝と母、それぞれの長い夜
*小見出しなどはWeb掲載のために加えたものです
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