源氏物語の作者「紫式部」謎に包まれた家庭環境 式部の父親や母親はどんな人だったのか?
為信は、969年には越後守、それ以降は、常陸介や右近少将に任命されました。紫式部の少女時代に、母方の祖父(為信)は常陸介だったのです。そして、987年1月に為信は出家しました。
では、式部のお母さんはどのような人だったのでしょう。これについては、残念ながら、よくわかりません。
式部のお母さんの兄・理明の生母は「宮道忠用の娘」でした。兄・理明と同じ母ならば、式部のお母さんの生母は「宮道忠用の娘」ということになります。
宮道氏はそれほど上級の氏族ではなく、中級・下級クラスでした。為時と結ばれた藤原為信の娘は、969年には長女を、970年に次女を産んだとされます(その2年後には、長男・惟規を産む)。
この次女こそ、「光る君へ」の主人公・紫式部なのです。今でも3人の子を産むというのは、なかなか大変だと思いますが、1000年前というとなおさらです。
出産環境も現代に比べたら、当然ですがよくありません(乳幼児の死亡率も高かったと推測される)。元々、身体が弱かったということもあったかもしれませんし、3人の子を産んだことが身体に響いたのかもしれませんが、式部の母は、長男の惟規を産むとしばらくして亡くなってしまうのです。
式部の日記に母の思い出は書かれていない
これは、式部が3歳か4歳頃のことと推測できます。紫式部は日記を書いていますが、そこに、幼少期の頃の父(為時)の思い出は記されていますが、母のことは書かれていません。
それは、式部が幼い頃に母を亡くしたことを表しているのでしょう。
式部の母亡き後、為時は一生独身を貫いたわけではありません。他の女性と結婚し、子供をもうけています。藤原惟通(後に安芸守に就任)・定暹などが、式部の母以外の女性から産まれているのです。
しかし、式部の継母というべき女性については具体的なことは何一つわかっていません。式部らがその継母と同居していた様子はありません。為時は新しい妻を自分の邸に迎え入れることはなかったようです。
式部やその姉弟は、母のいない家庭に育ったのでした。とは言え、女手がまったくなかったかというとそうではなく、乳母や女房(侍女)は邸にいたでしょうから、式部らは、父・為時と彼女らの手によって育てられたはずです。そのことは、式部の生涯や性格に何か影響を与えたのでしょうか。
(主要参考文献一覧)
・清水好子『紫式部』(岩波新書、1973)
・今井源衛『紫式部』(吉川弘文館、1985)
・倉本一宏『紫式部と藤原道長』(講談社、2023)
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