源氏物語の作者「紫式部」謎に包まれた家庭環境 式部の父親や母親はどんな人だったのか?

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まず、紫式部は、どのような家に生まれたのでしょうか。式部のお父さんは、藤原為時。お母さんは、藤原為信の娘でした。

為時は「藤原北家」と言われる、藤原不比等(藤原鎌足の子)の次男・房前(奈良時代前期の貴族。681〜737)を先祖に持つ名門の出身です。

藤原北家は、大河ドラマ「光る君へ」にも重要な役で登場する藤原道長の時代に全盛を極めました。そのことは、式部の生涯を考えるうえでも重要なことでしょう。

さて為時は、15歳頃に大学に入ったと言われています。大学に入り、菅原文時(菅原道真の孫)を師匠として学んだようです。為時は、968年11月に播磨権少掾に任命されました。

播磨(国)というのは、今の兵庫県南西部のことを指します。

「掾」というのは、国司(諸国の政務を管掌した地方官)の第三等官のこと。国司は4階級に分かれ、上から守(かみ)・介(すけ)・掾(じょう)・目(さかん)となっていました。

当時、諸国は経済力や土地の面積、人口などによって「大国」「上国」「中国」「下国」にランキングされていました。

このうち、高い位置付けにある大国には「大掾」「少掾」が置かれたのです。

最上位の大国はどこかというと、大和国(奈良県)・河内国(大阪府東部)・伊勢国(三重県北中部)・播磨国などの国々でした。

上国は、山城国(京都府)・備前国(岡山県東南部)そして越後国(新潟県)といった国々。中国や下国については、もしかしたら、差し障りがあるかもしれませんので、省略しましょう。

紫式部の母と父の出会い

余談となりましたが、式部の父・為時は、22歳頃に、「大国」播磨国の地方官に任命されたのでした。

為時が播磨権少掾に任命されたとき(968年)に、彼が22歳だったとすると、為時の生年は946年ということになります。

地方官任命の前後に、為時は、藤原為信の娘と結婚したとされます。為信の娘というのが、前述したように、紫式部の母となる女性です。

為信の家は、藤原長良(平安前期の公卿。802〜856)の末流とされます。

長良は、藤原北家の藤原冬嗣(平安前期の公卿。右大臣や左大臣を歴任。藤原北家が栄える基礎を作ったと言われる)の長男でした。

その長良を祖先に持つ為信は、933年頃の生まれと推測されています。式部の父・為時よりも、13歳も年上ということになるでしょう。

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