だが、家光の誕生から2年後に国松が生まれると、両親は国松を溺愛。家光は跡継ぎのはずながら、多感な時期に親の愛を受けることができなかった。
父の秀忠の小姓が変に気を利かせて、秀忠が2人を召し出すときには、いつも国松のほうを先に呼んでいたという史料もある。それに気づいた家光は泣きながら、近習の者につらい出来事として話していたという。
幼き家光は将軍の長男でありながら、非常に不安定な幼少期を送ることとなった。
家光がお守り袋に入れていたモノ
親の愛情を受けられなかった家光が、心を深く傷つけられたことは想像に難くないが、それだけに味方になってくれる人の存在は、涙が出るほどうれしかったことだろう。乳母のお福(のちの春日局)や、家光にとっては祖父にあたる、大御所の徳川家康らのことである。
家康はあくまでも後継者は家光とし、重臣の土井利勝にも遺言として「天下は竹千代に」、つまり、家光にと伝えている。
この家康の介入の裏には、家光に同情した乳母のお福が、伊勢神宮参内を理由にして、駿府まで出向き、家康に実情を伝えたともいわれている。
よほど腹に据えかねたのか、お福が作成に関与したと伝わる『東照大権現祝詞』には、次のように書かれている。
「崇源院様は家光を憎み、悪い印象ばかりを持ったので、台徳院様も同じ気持ちになり、2人の親ともどもが家光を憎んだ」
崇源院とは家光の母、お江のことで、台徳院とは家光の父、秀忠のことである。本来であれば、長幼の序を守って、年長の家光が世継ぎとして厚遇されるはずが、両親が国松ばかりを可愛がるので、諸大名も進物を献じる際、2人に区別をつけなかったようだ。
例えば、加賀金沢城主の前田利長は使者を派遣した際に、家光と秀忠に同額の金50枚ずつを与えている(『当代記』)。また「菊の節句」とも呼ばれる重陽のご祝儀でも、阿波徳島の蜂須賀家では、2人に同額の呉服が与えられたようだ(『蜂須賀家文書』)。
母は、国松のところだけに夜食を届けたというエピソードまで囁かれている。もし、乳母のお福が家康に掛け合わなければ、聡明と伝わる国松が後継者に選ばれていたとしてもおかしくはなかった。
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