それだけに、家光は生涯、家康への恩を忘れなかった。将軍就任から約10年後の寛永11(1634)年には、家康を祀る日光東照社の大造営に着手。豪華絢爛な建造物に改築し、その費用はすべて幕府が負担している。
それだけではない。家光は朝廷に対して、日光東照社への宮号宣下や日光例幣使の創設を要請。いずれも、日光東照宮の地位を高めることが目的だ。
さらに、よほど家康への崇敬が強かったのだろう。家光はお守り袋に、こんな旨が書かれた紙まで入れていた。
「東照大権現 将軍 心も体も一ツ也」
つまり「家康と自分は心身ともに一体である」ということだ。それほど祖父の家康をリスペクトしたのは、同時に父の秀忠との関係が希薄だったことの裏返しかもしれない。
自らの権限を強化して大名を監視した
家光は、自らを頂点と立ち、すべての職を直轄する独裁体制を敷く。そのために、まずは自分の権限を強化し、大名たちを厳しく監視した。
家光は慶長20(1615)年に父、秀忠によって制定された「武家諸法度」を、寛永12(1635)年に大幅に改定。もともと13カ条だったが、そのうち9カ条を実情に合わせて変更。さらに3カ条を削って、9カ条を新たに加えた。
この改定によって、大名は譜代、外様を問わず「1万石以上」とし、参勤交代が義務づけられた。参勤交代は、それまでも行われていたが、江戸の滞在期間や交代期などを細かく定めるなど、より徹底させている。
厳しい処分として、家光は手始めに加藤清正の三男である加藤忠広を改易。家光は、外様大名の伊達政宗、前田利常、島津家久、上杉定勝、佐竹義宣らを江戸城に呼びつけて、改易の理由をこう説明した。
「御代始めの御法度であるから厳しく処罰する」(『大日本近世史料 細川家史料四』)
つまり、加藤家を厳しく処罰することで、将軍としての威光を示そうとしたようだ。その後、譜代大名が大幅に九州に進出している。
父の秀忠の場合は、家康が亡くなった途端に、弟の松平忠輝と豊臣系の福島正則を処分した。子の家光も同じように、秀忠が亡くなった途端に、弟の忠長とやはり豊臣系の加藤忠広を処分したことになる。
大名たちを弱体化させることで、自らの権勢を強めた家光。重臣たちとはどんな人間関係を築いたのだろうか。
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