「茶々」親の仇に嫁ぐも、天下を失い子と散る悲哀 不安から「うつ病」を発症、心の安寧を希求した生涯

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そんな茶々の行く末に暗雲が垂れ込めます。まずは秀吉に死が訪れました。後継者である秀頼は幼く、秀吉の死の直後から五大老筆頭・徳川家康が存在感を増し、これに石田三成が対立するなど政情は不安定に。こうした事態のなか、本来は豊臣家の柱となるはずの秀吉の正室・北政所(寧々)は、1599年に大坂城を退去してしまいます。その北政所のいた西の丸に入ったのが家康です。

それまでも茶々は北政所とことあるごとに対立してきましたが、北政所は家康を含め、加藤清正、福島正則など豊臣恩顧の諸将にも信頼を置かれる政治的にも重要な存在でした。北政所を失ったことは、豊臣家にとって政治的には痛恨の失策となります。

関ヶ原の戦いを静観した茶々

その後、家康による上杉征伐の隙をついて石田三成が挙兵をし、いわゆる関ヶ原の戦いが勃発します。この戦いにおいて、茶々は三成を表立って支持することはなく、三成が要求する秀頼の墨付きの文書や出陣などもいっさい受け付けませんでした。とはいえ家康を積極的に支持することもなく、天下をふたつに分ける事態のなか、あくまで傍観者の立場を通します。

結局、三成は敗れることになり、家康が事実上の最高権力者に。関ヶ原の戦い直後に茶々は家康をねぎらい、秀頼の父親代わりになることを依頼します。家康はそれを上機嫌で受け入れましたが、実際に行ったのは、論功行賞で豊臣家の直轄地を勝手に削減し、おのれの所領を増やし豊臣家を一大名の地位に落としたことでした。しかし、これはかつて秀吉が主家であった織田家に行ったのと同じことでもあります。

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