「茶々」親の仇に嫁ぐも、天下を失い子と散る悲哀 不安から「うつ病」を発症、心の安寧を希求した生涯

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茶々の存在が再び世に出るのは1588年あたりです。この時期には秀吉の側室になっています。茶々は19歳でした。

秀吉はこの時期、手当たり次第に側室をもうけており、そのなかには主君・信長の娘も、古くからの盟友・前田利家の娘もいるというありさまです。茶々も、そうした秀吉の好色の餌食になったのかもしれません。しかし彼女がほかの側室と決定的に違ったのは唯一、秀吉の子を身籠ったことです。

天下人の後継者を産んだ側室に

1589年、茶々は秀吉とのあいだに第一子・鶴松をもうけます。秀吉にとっては待ちに待った世継ぎでもありました。秀吉は茶々に淀城を与えます。このことから茶々は「淀殿」と呼ばれるようになりました。

しかし鶴松は、すぐに亡くなってしまいます。気落ちした秀吉は、甥の秀次を後継者に定めますが、なんと茶々はまた身籠り、お拾い(秀頼)を産みました。

茶々は秀吉の嫡男の母として、おおいに権勢を奮うことになります。大蔵卿局、饗庭局らを重用し、政治的な発言権も持つようになっていきました。

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