「日本の民主主義」は中国思想と深く関わっている 儒教の精神は「封建主義」ではなく「個の確立」だ

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中野:私も、大場さんに伺いたいことがあります。私はこの時代のことを詳しくは知らないんですが、最近BSで見た、春秋戦国時代を一国ずつ解説する中国のドキュメンタリーがすごく面白かったんですよ。

中野 剛志(なかの たけし)/評論家。1971年、神奈川県生まれ。元・京都大学工学研究科大学院准教授。専門は政治経済思想。1996年、東京大学教養学部(国際関係論)卒業後、通商産業省(現・経済産業省)に入省。2000年よりエディンバラ大学大学院に留学し、政治思想を専攻。2001年に同大学院より優等修士号、2005年に博士号を取得。2003年、論文‘Theorising Economic Nationalism’ (Nations and Nationalism)でNations and Nationalism Prizeを受賞。主な著書に山本七平賞奨励賞を受賞した『日本思想史新論』(ちくま新書)、『TPP亡国論』(集英社新書)、『富国と強兵』(東洋経済新報社)、『小林秀雄の政治学』(文春新書)などがある(撮影:尾形文繁)

そこで考えたことは、秦が強くなったのは商鞅の変法のおかげですよね。でも変法を実施した国は秦だけじゃなくて、趙や楚もやってたんです。ただ、明確に成功したのは秦だけ。ほかは失敗しちゃってる。改革しなかったからダメだったわけじゃなくて、みんなやってたんですよ。でも楚みたいに貴族が強すぎて中央集権にできなかったり、改革を過激にやりすぎたり、中途半端だったり。

秦みたいに徹底してやって成功した国もあれば、同じく徹底してやって失敗した国もある。秦の場合、商鞅だって最終的には殺されるわけですからね。国によって違うんですよ。

そのドキュメンタリーによれば、変法の発端は魏で、それによって強国となり、秦に衝撃を与えたのですが、自らが育てた優秀な知識人が国外に流出して、秦に行ってしまったんですよ。商鞅も魏出身だったはず。

韓の国も、申不害の下で変法を断行し、権謀術策に長けた国民性へと改革し、強国になりましたが、そのせいで、韓の国内政治でも権謀術策が横行して不安定化し、弱体化してしまいました。

趙の国も、武霊王が改革に成功して、一時は秦を脅かすくらいの強国になりました。でも、彼の先見性が理解されずに、結局は改革が失敗してしまう。国の成り立ち、地域の特性、それが大きく影響するんでしょうが、一筋縄ではいかない。どこが違いを分けるのか、それがものすごく面白い。これは現代にも通じる話で。

改革の成否を分けるもの

中野:この失敗のパターンを後知恵で考えると、やっぱり理想に走ったり、議論に走ったり、強引にやって失敗したのか。一般的にはそう解釈されますが、成功したとしか見えないケースもあります。厳しいか甘いかの態度で、やり方の不徹底が失敗を招くこともありますし、厳しく徹底した場合は反発が大きくなることもあります。何百年もの実験をしても解がないんです。

秦は天下を統一しましたが、すぐにダメになってしまいました。変法というのは成功しているのか、失敗しているのか、失敗していることのほうが多いように思えます。

答えはないかもしれませんが、状況や、天と地、人の利、運などにも関係しているでしょう。ここが非常に面白いですね。中国の古典や歴史が好きな人が多いのも、その面白さからでしょう。

地理的な環境や経済的な状況、優秀な人材がいたかどうかも重要です。秦には優秀な人材がいました。商鞅もそうですが、軍事的にも白起将軍のようなすごい人材がいました。いたんですが、商鞅、范雎、韓非子、呂不韋など他国から来た人たちも多かったようです。

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