佐藤:裏を返せば秦も、産業基盤が整う前は傑出した個人を肯定していたかもしれない。それが状況の変化により「レベルの高い凡人がたくさんいるのが望ましいんだ、飛び抜けたやつなんか要らない」ということになったのではないか。この場合、当事者は自分の思想の変化を自覚していない可能性すらあります。天下統一をめざして頑張っていたら、いつの間にか社会がそうなっていたと、秦王本人も驚いたのではないか。
思想というと、自由な主体性をもって考えついたり、選び取ったりできるようなイメージがあるものの、これ自体が神話にすぎないのではないか。産業基盤をはじめとする経済的環境、あるいは国際環境といった外的条件によって、多分に支配されているように思えます。
大場さんは高度成長期の日本社会について、孔子や孟子の理想にわりあい近かったと書かれていますが、アメリカの覇権や冷戦構造がなければ、高度成長そのものがありえなかった。「日本的経営」に儒教的な側面が見られるのは確かですが、これも占領改革によって労働者の権利が強化されたことを受けて成立したものです。
思想の限界とは、人間の主体性の限界です。それでも現実を制御すべく、敗北を承知で思想に踏み出すところに人間の尊厳がある。完全な君子になることはないかもしれないが、君子になる努力は続けなければいけない、そういうことではないでしょうか。
変化に対応するための予備としての思想
大場:おっしゃるとおりです。論語でも、孔子は不遇な時代にどう自分を処するかをよく考えていました。受け入れられれば進むけれど、受け入れられなければ退くという、「自分を予備に置く」っていう考え方をします。予備に置いたときに、理想の国の姿を心や頭の中に保全して、状況変化に応じてすぐ動けるように保存しておくんだって。
たとえば戦後の経済の話もそうですが、明治時代の頃の自由民権運動を主導してた連中は、今でいう右左関係なく、孟子をやたら引き合いに出していました。王道政治をひっぱってきて、均質な所得と生活レベルを維持したら、国民が帝国臣民として、みんなで国家を支えるのであると。中江兆民や三宅雪嶺であろうが、みんな同じことを言っていました。
ここで注目すべきは、そうした思想が言論レベルで予備として温められ、政治に実践される機会を待っていたことです。昭和戦前期などを見ると、陽明学者の安岡正篤に学んだ商工省などの革新官僚たちが、統制経済を施行し始めたんです。これは、予備として言論レベルに退いていた思想が、実践として表舞台に躍り出た例になります。
その革新官僚たちは戦後、それこそニューリーダーたちの言うような平等っていうものと非常に似ていたので、そのまま通産省の中で戦後の高度経済成長を主導していきました。
つまり、外的な条件がそろったとしても、彼らにそうした思想がなかったら、この成果は生まれなかったかもしれません。だから、思想というベースがある中に、外的条件が合わさって初めて結果が出るのではないのかなっていう感じはしております。
ですから、佐藤先生がおっしゃるとおり、ひたむきに生きているだけでは、いい結果は出ないかもしれません。でも、ひたむきに生きようとしなければ、時代のチャンスを生かせない。