「日本の民主主義」は中国思想と深く関わっている 儒教の精神は「封建主義」ではなく「個の確立」だ

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古川:他方、「君子」の反対概念である「小人」や「野人」は、ギリシアでいうところの「奴隷」です。これは孟子でもそうで、たとえば「君子なくんば野人を治むるものなく、野人なくんば君子を養うものなし」という有名な一節があります。まさに、ギリシアの市民が奴隷の生産労働によって労働から解放され、その自由と余暇において徳を養って政治に参加したのと同じ構図があるわけです。

したがって、もともとの儒教の精神は、民主主義というよりは共和主義に非常に近いものなんです。だから、中野さんが書評のなかで、「孟子の思想は共和主義そのものだ」と書かれているのを読んで、私はびっくりしました。

中野:やっと卒論のレベルに追いついた(笑)。

古川:いやいや、そういう意味ではなく(笑)。読む人が読めば、やはり直観的にわかるものなのだなと思いました。

そして、西洋でもルソーなどが古代の共和主義を民衆化(デモクラタイズ)するかたちで近代思想を導いたように、中国でも儒教を民衆化するかたちで、民主的な思想が出てくる。

つまり、一般の人々も含めて、誰でも学んで身を修めれば君子になれるし、なるべきである。そして、そういう人々が集まって議論して、公論を形成していくのが、あるべき政治の姿である。こういう話になっていくわけです。

だとすると、日本で民主主義を実現したいのだったら、まずもって儒教をベースに人々が学んで修養して「君子」になることを目指すということが大前提で、それが日本における民主主義の条件であるはずです。

そのあたりのことを、儒学の素養があった明治の知識人たちはよくわかっていて、たとえば中江兆民は「市民(シトワイヤン)」に「君子」や「士」の訳語を当てています。私が『大人の道徳』で「市民」は「士民」と書くべきだと言ったのも、そういうことです。

にもかかわらず、戦後の日本は、儒教を封建思想だとみなして、民主主義の条件をむしろ意図的に破壊してきました。

ですから、大場さんが儒教の根本精神は「個の確立」だと主張されたことは、これこそが日本の民主主義の基盤であるということを、あらためてわれわれに教えてくれる、とても意義深いことだと思います。

中国思想における「個」と個人主義の違い

中野:ありがとうございます。では続いて施さんに、ご発言をお願いできますか。

施 光恒(せ てるひさ)/政治学者、九州大学大学院比較社会文化研究院教授。1971年、福岡県生まれ。英国シェフィールド大学大学院政治学研究科哲学修士(M.Phil)課程修了。慶應義塾大学大学院法学研究科後期博士課程修了。博士(法学)。著書に『リベラリズムの再生』(慶應義塾大学出版会)、『英語化は愚民化 日本の国力が地に落ちる』 (集英社新書)、『本当に日本人は流されやすいのか』(角川新書)など(写真:施 光恒)

:はい。私としては、新自由主義的なものからどうしても抜けきれない日本の現状、世界の現状を中国思想にひきつけて、非常に明解にわかりやすく論じている点が、とても勉強になりました。私自身、このあたりの知識があまりなかったので。

ただですね、教養を求めるビジネスマンの方々にもわかりやすいように書いていらっしゃるので、少し言葉遣いが、そうした人たちに合わせて使っているようなところがあると思うんですよね。

ですから、「個の確立」という言葉は非常にわかりやすいとは思うんですが、やはり普通、個の確立というと、西洋哲学の個人主義的なものにひきつけられてしまうというか。最近だったら、新自由主義や維新の会。ひと昔前だったら、小沢一郎さんとかも個の確立ということをずっと言ってきたと思うんです。

個の確立という言葉が、大場さんが使ってる文脈と少しずれて理解される可能性はないかなと思いました。

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